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創作あれこれのお話をぽちぽちおいていく予定です。カテゴリがタイトル別になっています。記事の並びは1話→最新話。
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 遥か昔、この世界は二つに分断された。
 “アシンメトリィ・コミット”と呼ばれた大きな事件によって、惑星の半分が不毛の大地へと変わった。
 残ったもう半分の土地も、かってあったと言われる潤沢な水源はほとんど枯れ果ててしまった。荒れ果てた大地に残された人々は、数少ない水資源を求めて点々と小さなコミュニティーを作って生活していた。
 そんな生活が幾世代か続き、かつて世界を襲った災厄が伝承でのみ語られるようになった頃、突如それは西の果て、人々が別れを告げたその大地をすぐ背にして現れた。
 この世界において初めての、そして今なお類を見ない大きさの、純然たる国家。
 
 コルマガ王国は、そんな国だった。
 
 
 
 
 
***

 それは、誰の声だったろうか。
 
 
 泣き声がする。遠い記憶の彼方、沈んだようにたゆたう思い出の中で。
 もう泣くなよ、そう呟いたが声にはならなかった。
 泣き声は止まない。酸素が足りなくなって何度もえづきながら、それでもなお上げ続けるその声に、なんだか胸をぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。
 
 
 この声を聞いたことがある。
 
 そう思う。けれどどこで?
 
 この声の主を知っている。
 
 そう思う。けれど誰だ?
 
 
 それでも、その泣き声にどうしようもない切なさと愛しさを覚えて、やはり気づけば語りかけていた。
 
 
 もう泣くなよ。ずっとそばにいるから。
 
 
 
「――リィ、ビリィ」
 頭上から声がする。まだ夢の中に引っ張られるような気だるげな気持ちの中、ビリィはゆっくりと目を開いた。
「よかった。やっと目が覚めたのね」
 目の前には栗色の瞳でこちらを覗きこんでいる少女の姿があった。ビリィは思案し、やっとその名前を口にする。
「……ドリィ」
「そうよ。昨日会ったばかりの人の顔を、もう忘れちゃった?」
 ビリィの心の中を見透かしたかのように、ドリィが茶化して言った。しかしその瞳の中には、安堵の表情が混じっている。
「歩いてたらいきなり倒れるんだもん。びっくりしちゃったわ。目が覚めて本当に良かった。あんまり心配させないでよね。街の中じゃないんだから、体調には十分に気を付けてもらわないと」
 安心したのか、ドリィは大仰にため息をついて苦言を呈した。
 そうか、昨日寝ないまま街を出て来てしまったから、あまりの疲労に意識を失ってしまったんだ。
 ビリィは少し頭痛の残る頭で記憶を手繰る。そうして、思い至った結論に眉根をきゅっと寄せた。
「……一睡もしてない僕を急かして街から出発させたのはドリィの方じゃないか」
 そう、昨日はアビスを倒して、その礼にと街の人が宴を催してくれたのだ。今まで決して人間が敵う相手ではないはずだったアビスを倒す存在が現れた。その喜びは、人々を一晩中熱狂させるに十分だった。宴の主役が途中で席を外すわけにもいかず、そのままずるずると付き合ってしまったのだ。
 そして、朝に再会したドリィに急かされて街を出たビリィは、一睡もしないまま灼熱の砂漠に放り出されることになってしまった。
 ビリィがその不満を隠さないままにドリィを見やると、「そんなこと言われても」と言いたげに肩をすくめた。
 ふいに、額にひんやりとした心地よさを覚えてビリィは手をやった。濡れタオルだ。何度か触ってその正体を確かめたビリィは、タオルを手で抑えたまま体を起こした。
「僕、どれぐらい倒れていた?」
「さぁ。東にあった太陽が、西に傾くぐらいまでは」
 ドリィは首を傾げる。その脇には水が半分以上なくなっている水筒があった。ビリィは顔をしかめる。
「ドリィ、君ずっと介抱をしてくれていたのかい」
 確かに、ビリィには正午近くまでの記憶があった。朝、西の空で地平線いっぱいにその足を広げていた虹はいつの間にかその姿を消してしまっていた。ビリィは空を見上げる。太陽の傾きをみると、ざっと2、3時間ぐらいは眠ってしまっていたのだろうか。
「置いていくわけにもいかないでしょう」
 ドリィは笑う。ずっと傍についてくれていたのだろう。地面に着いた膝が赤かった。先程まで自分が倒れていたその頭の部分には、ドリィの鞄が敷かれている。ビリィは急に自分が情けなくなって、ガシガシと頭を掻いた。
「……ごめん、ありがとう」
 目を合わせるのも恥ずかしくて、そっぽを向いたまま呟いた。視界の端のドリィの顔は、優しく微笑んでいる。
「まぁ、私も無理をさせてしまったから」
 その声があまりにも大人びて聞こえて、ビリィはドキリとした。慌てて居直ると、やはり無邪気な少女の笑顔だった。なぜかほっと息を吐く。
「でも水が……。次の村までどれだけあるかわからないのに、もうそれだけしかないじゃないか」
 ビリィはドリィの脇にある水筒を指さした。ドリィはきょとんとその指の先に視線を合わせ、「ああ!」ポンと手を叩く。
「それがね、ビリィ。すごいのよ!《遺跡》があったの!しかも、ほとんど壊れていない姿で!」
 重要なことを言い忘れていたわ!ドリィはそう言いながらぐっと身を乗り出した。ビリィはその言葉の意味を考えて、瞬間、やはり驚いて目を丸くする。
「まさか!《旧時代》‐ティアモ‐の遺物かい?」
 ビリィの反応が理想通りだったのか、ドリィは目をキラキラとさせて頷いた。頬は紅潮し、鼻息も心なしか荒い。その様子に、ドリィがデタラメを言っているのではないことがわかって、ビリィにもその興奮が伝わるようだった。
 
 
 アシンメトリィ・コミット。
 
 それは、ビリィ達が生きるこの時代の始まりを語るにおいてなくてはならない言葉だった。
 世界の半分を人々の住めない不毛の大地たらしめ、もう半分にすら、今なお深く残る爪痕を残した大災害。その大災害より以前の歴史を、人々は《旧時代》‐ティアモ‐と呼んだ。
 ティアモでは、人々は豊かな資源に支えられて、世界中のあらゆる場所で水は絶えず沸き、植物は生い茂り、その中で成長した科学力の元、今では想像もできないほど潤沢な生活をしていたらしい。
 それはまるで楽園のようであったと、その時代を知る人が完全にいなくなってしまった今でもなお語り継がれている。
 そしてそれが、資源のないこの時代に生きる人たちが生んだおとぎ話ではないことをビリィ達はハッキリと知っている。それを証明するのが、地上のあらゆる場所に遺されていた《遺跡》の存在だった。遺跡は、人々が住む町や村の中や、地表が裂け、足を踏み入れるのも難しい奥地など、この地上のあらゆる場所に存在していた。しかし、そのほとんどが「アシンメトリィ・コミット」の影響や風雨にさらされた劣化により、その原型を留めてはいない。
 
「こっちよ、ビリィ」
 ドリィに手を引かれるがままビリィも駆け出す。左に聳え立つ崖の、緩やかなカーブに沿って行くと、やがてその壁の向こうに“それ”は姿を現した。
「すごい……」
 明らかに自然の力だけでは創造しえない、一寸の歪みもない球体。つるんとした外壁のてっぺんについていたのだろう柱が途中でボキリと折れ、こちらに傾いて崖の途中の岩にひっかかっている。球体の高さは軽くビリィの三倍はあり、その壁面には窓ひとつ付いていなかった。
 それでも、継ぎ目のないその壁面の輝きは、ビリィ達にそれを作る文明力の高さを想像させるに十分だった。
 悠久の時を超えてなお、朽ちることなく佇む《遺跡》。
「すごい……」
 もう一度ビリィが呟いた。ドリィも頷いている。しかしはた、と気づくと、繋いでいたビリィの手をぐいぐいと引いた。
「それでね、ビリィ。あの柱。中が空洞になっていたの。そこから、中に入れたのよ」
 ドリィが指さす。崖の途中に引っかかっている柱の先。あんなところまで行ったのか。ビリィは驚いたが、なるほど、岩が階段状につみあがっていて、そこまで登るのはそれほど苦ではないように見えた。
「中は、ティアモの遺産でいっぱいだったわ。この先に何があるかわからないし、少し早いけど今日はここを宿にしましょう?」
 
 
 遺跡の中は、外で受けた印象よりもさらにビリィを驚かせた。
 中は少し傾いていたが、通ってきた柱の辺りには何枚ものパネルが敷かれていて、近づいてみると非常に細かい透明のガラスがいくつもついていた。「用途はわからないけど、そこに何か映像を映すことができたみたい」とドリィは言った。壁や床も、ビリィにはなんの素材でできているか想像もつかなかったが、何百年もそこにありながら、未だに白く清廉な輝きを放っていた。
「谷の中にあったから、あまり自然の影響を受けなかったのかしら」
 ドリィが興味深そうに呟いて、床に散らばったものをひとつひとつ拾い集める。それも、特に模様もない白い四角い箱や球体ばかりで、ビリィにはどう使うのか全くわからない。ドリィは手に取ったものを丁寧に確かめては、また床に戻したり鞄に入れたりしている。
「それが何かわかるのかい?」
 ビリィの言葉に、ドリィは曖昧に笑った。
「はっきりとは……ただひとつ言えるのは、ほとんどが今はもう使えないガラクタになってるってことね。ここにあるものは、大半は何か動力を使って動かすものみたい。一体、ティアモにはどれだけの資源があって、それをエネルギーとして活用することができたのか……今では羨ましいばかりだわ」
 ドリィは肩をすくめてため息をついた。ビリィもまた何も言えなくなって、ドリィの手の中にある四角くて白い箱を見た。ドリィはこれをどう使うか、「はっきりとは」わからないと言った。しかし、こうやって鞄の中に入れるものと再度床に戻すものと選り分けているということは、今までにもそれを使ったことがあるのだろう。
「ドリィの鞄は、ずいぶん小さいと思っていたけど……まさか、中はほとんどティアモの遺産なのかい?」
「……ええ。おかげで旅が随分楽になったわ。ティアモの遺産は、闇市でもよく取引されているから。さっきは……ほとんどのものが動力を必要としていると言ったけど、中には太陽の光を貯めて夜に灯りになるものや、汚れた水を入れるだけできれいな水に変えてくれるもの、今この世界にある資源だけで利用できるものもたくさんあるの。ティアモが滅んでから何百年も経っているのに、未だに安全に食べることができる食物とかね。……まるで、ティアモの人々は、いつか自分たちの文明が滅ぶとわかっていたみたい……」
「……」
 ビリィは再度ドリィの手の中にある箱を見る。それは、なんの変哲もない白い箱に見えた。ビリィがこれを見つけたとしても、何の疑問もなくまたその場に捨て置いてしまうだろう。
 ティアモの遺産の使い方を知り、なおかつ、それを闇市で手に入れる交渉術。自分の半分ほどしか生きていないようにしか見えない彼女が、一体どれだけの場面を潜り抜けてきたのか。その人生を慮って、ビリィは一種の空恐ろしさを覚えた。
 目の前の少女は、もしかして自分が思っているよりずっとすごい存在なのではないのだろうか、と。
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「ビリィは、アビスのことをどれぐらい知っているの?」
 街でもらってきた乾パンを頬張りながらドリィが問いかけた。いつの間にか陽は落ち、柱の穴から覗く空にも星が輝いている。二人の間には火炎石が熾す火が煌々と輝いていた。ビリィが倒れている間に、ドリィが見つけてきていたものだ。昨日からすっかり世話になってばかりだな、とビリィは苦笑する。炎の向こうの真っ白な顔を見やった。
「全然さ。そこらで胡散臭い宗教家が話すこと程度しか知らないよ」
 ヤギ肉の燻製を歯で噛み千切ってビリィは答えた。モグモグと咀嚼しながら話を続ける。
「目を付けられた集落は必ず滅びる、何匹もいる。集団では行動しない。《旧時代》の文献に似たような怪物の記述がある。これぐらいだよ。
 その文献だって、コルマガ王国の滅亡とともにほとんど焼けてなくなってしまったらしいから、実際どんなことが書いてあったかなんてわからないし」
 ビリィは肩をすくめる。ドリィは「そう」と言ってまた一欠けパンをちぎって口の中に入れた。

「……ドリィこそ、どれだけアビスについて知っているんだい。どうして、この剣がアビスを倒す力を持っていると知っていたんだ?それにこの剣の柄、アビスの尻尾の裏にあった模様と同じ紋様が刻まれてる。どこで手に入れたものなんだ?」
 ずっと疑問に思っていたことをビリィはドリィに問いかけた。わからないことはたくさんあった。なぜアビスの現れる場所がわかるのか、どうしてビリィをこの剣の持ち主に選んだのか、なぜ今は亡きコルマガ王国の姫の名を名乗っているのか。
「そんなにいっぺんに聴かれても困るわ」
 手に持ったコップの中の山羊の乳に落としていた視線がまたゆるゆると上がって、ドリィは困ったような笑みをビリィに向けた。
「……私がアビスについて知っていることも、ビリィとそうは変わらないわ。ただ、その剣がアビスを倒す力を秘めていて、それがいつか誰かを選んで。……そして、その人だけがアビスを倒すことができる。それだけはわかってた」
「……なぜ?」
「なぜかしらね。気が付いたら“知ってた”の。その剣もいつの間にか手元にあったものだし。全然記憶がないのよ」
 振り絞るように聞いたビリィの言葉を、ドリィはあっさりと返した。その視線は困ったように横に逸れていて、それ以上の詮索はされたくないと言いたげだった。
 ビリィは何も言えなくなってしまい、フゥと息をつく。困ったように頭をポリポリと掻いた。
「一緒に旅をするには、心許ないかしら?」
 ドリィがぽつりと呟いた言葉に、ビリィはハッとする。炎の向こうの顔を見つめたが、炎の明るさが影を飛ばすその表情は平坦で、うまく感情が読み取れなかった。
 ビリィは昨日の出会いを思い起こす。泣きそうなドリィの顔が、目の前の白い顔に重なった。
「……いや、君を信じるって決めたからね」
 自然と頬が上がる。腰に置いた剣の鞘を撫でた。
「この剣がアビスを倒す力を持っていることは確かなんだ。それは、昨日僕自身が確かめたんだから。そして、そのおかげで僕が助かったことも疑いようのない事実だ。命の恩人を信じるのは、当たり前だろう」

 ドリィは相変わらずコップを持って、感情の読めない顔をビリィに向けていた。しかし、キュッとコップの取っ手を握ると、肩に入れていた力を抜いて微笑む。
「理屈っぽい信じ方ね」
「でも、説得力があるだろう」
 ビリィも笑い返す。ドリィは「そうね……」と少し俯いて、何か思案するように目を細めた。

「……アビスについて、もうひとつ言えることがあるとするならば、」

 その声音に、ビリィの手にも思わず力が入った。
「アシンメトリィ・コミット。この星の半分を滅ぼし、そしてもう半分のほとんどの土地を今なお不毛の大地にしているあの大災害に、アビスが関わっていたことはまず間違いないと思うわ」
「……!」
 昨日街で演説をしていた宗教家の言葉を思い出した。まさかあの時否定的な態度を取っていたドリィからそんな言葉が出るとは思いもよらなかった。胡散臭い説だとばかり考えていたが、この剣を持っていたドリィの口から聞くと、信憑性が増すように思える。
 ああ、あの時あの宗教家は最後になんと言っていたのだろう?その時のドリィの言葉に気を取られて聞き損ねた自分を恨んだ。
 そんなビリィの態度を見透かしてか、ドリィは乳を一口飲むとため息をついた。
「……とは言っても、私はアビスもアシンメトリィ・コミットも神の怒りや祟りだなんて欠片も思っていないけどね」
 そして、鞄の中から古い紙の束を取り出した。
「《旧時代》の資料よ。ここまで旅をしてくる途中、少しずつ集めてきたの。……まぁ、きっとコルマガ王国に存在していた書物の数に比べたら微々たるものなんでしょうけど。
 この資料を見る限り、《旧時代》から遺された数々の伝承や文献がアシンメトリィ・コミットとアビスの存在を同時に語っているのはほぼ間違いないわ。アシンメトリィ・コミットが正確にどれぐらい昔に起こったものかはわからないけれど、アビスが現れた今、またその時が近づいているのかもしれない」
 ドリィの言葉に、ビリィはゴクリと唾を飲み込んだ。この星の半分を人が住めないまでに破壊し、残ったもう半分すら、ろくに植物すら生えない荒れ果てた大地へと変えてしまった大災害。時代が流れ、人々の記憶からその出来事が遠く消えて行っても、今なおその爪痕をこの世界に残しているのだ。
 ビリィはぐるりと建物の中を見渡した。この中にある道具や設備の殆どが、ビリィにはどう使うか見当もつかないものばかりだった。しかしその形状や、取り付けられた大小様々なボタンから、旧世界は自分たちが想像も及ばないような高水準の文明と科学力を持っていたことだけは伝わってくる。それを、ここまで完膚なきまでに崩壊させてしまうほどの大災害とは。今この世界でもう一度アシンメトリィ・コミットが起こったなら、そう考えただけで恐ろしかった。
「……まぁ、アビスが現れてからもう10年も経つし、アビスの出現が必ずしもアシンメトリィ・コミットに繋がるものではないのかもしれないけど」
 ドリィはコップの中身を飲み干した。鞄の中から小さく畳まれた布を取り出す。火に当てるとフワフワと膨らみ、人が一人包まれるだけの毛布になった。
「今日はあまり進めなかったから早めに寝ましょう、ビリィ。昼間は獣の姿をほとんど見かけなかったけど、念のため匂い消しと猛獣除けは建物の周りに張り巡らせておいたから、火が消えても大丈夫よ」
「準備がいいね……」
 ビリィは呆気にとられてそれだけを言った。ビリィ自身もここまで旅をしてきただけありある程度の知識は持っているつもりだったが、とてもドリィの手際には敵いそうもなかった。
「まぁ、この年で一人旅をするのも結構大変だしね」
 ドリィは何でもない風に答えて、薄く笑った。
 
 彼女に対しての謎は増えていくばっかりだな。そう思ってビリィはただ苦笑を返すことしかできなかった。



***

 夜の闇を煌々と照らしていた炎はすっかり消え、崩れた柱の穴から満天の星の光が二人に降り注いでいた。暗闇に慣れた目は藍色に沈む視界にぼんやりと夜の世界を映しだしている。

「……ビリィ、まだ起きてる?」
 隣で寝ていたはずのドリィの声がした。ビリィは視線を満天の星空に向けたまま答える。
「起きてるよ」
「……昨日も全然寝ていないんでしょう。早く寝ないと、また明日も倒れてかっこ悪い姿を見せることになるかもしれないわよ?」
「わかってるよ。……そっちが起きてる?って聞いたくせに」
 ビリィの膨れた声にクスクスと笑う声が聞こえた。モゾモゾと隣の毛布が動く気配がする。寝返りでも打ったのだろうか。
「ビリィは、どうして今西に来ようと思ったの?アビスを倒すためだけなら、ただアビスが現れた噂を頼りに進めばよかったのに」
「アビスが規則的な進路を取って現れないことぐらいは君だって知ってるだろ、ドリィ。そもそもあいつは一匹じゃないんだ。昨日倒したアビスだって、やつらの内のほんの一体に過ぎないんだから。アビスが現れた噂なんて、聞いたところで大して役に立たないだろう」
 少し近くで聞こえるようになったドリィの声に、ビリィは憮然として返した。二人の言葉が止まるたび、スゥ、スゥという呼吸音が夜の闇に響く。
「それでも、わざわざ東の果てから西までまっすぐ来ることはなかったでしょう?
 ……本当はビリィ、自分が生まれた村があった場所に向かっていたんじゃないの?」

 暗闇の中、ドリィの声だけが聞こえる。ビリィは輝く星々をひとつひとつ数えるように顔を動かさないまま視線だけさまよわせた。今横を見れば、きっとドリィはこっちを向いているんだろう。先程よりも近い声と気配がそれを示していた。しかし、ビリィは決してドリィの方を向かない。

「……そうだね。そんなつもりはないと思ってたけど……本当はそうだったのかもしれない。もう一度見ないと確かめられないのかな。もう、あの場所はないんだって。あんなに辛い思いをしたのに。
 ただ、どうしてか、今行ったら村があの日のまま残っているような、そんな気がしてしまうんだ」
 ビリィは観念したように呟いた。優しい声音だった。
「そう……そうね。生まれた場所だもの。帰りたいと、思うわよね」
 ドリィの声がフワフワと頭の中に入ってくる。いつの間にか瞼は重く、ゆっくりとまつ毛が下りてくる。

「ドリィは、……」

 意識が落ちる瞬間、ふと頭に浮かんだ疑問を最後まで言葉にできずにビリィは眠りに落ちた。もごもごと動いていた口はやがて寝息を立て始める。それをしばらく確認して、ドリィは「おやすみなさい」と微笑んだ。そしてまたゴソゴソと体を動かすと、今度は頭の先に置いていた鞄の口を開けた。そこから取り出したのは、白い絹で出来た小さな袋だった。口を結んでいた麻の紐をほどく。どちらもこの世界では非常に高級で手に入りづらいものだった。中から仄かな白い光が洩れる。
「……とうとう、ここまで来たわ。ここが始まりよ。絶対に、たどり着いてみせるから」
 それは、昨日ビリィに気づかれないようにそっとアビスの角からナイフで削り取った粉だった。月の光に反射してキラキラと輝いている。
 その光がドリィの瞳に反射して、ゆらりと揺れた。ドリィは少しだけ目を伏せると、また紐で袋の口を縛って鞄の中にしまう。

「……ごめんなさい」

 
 その言葉は誰に届くこともないまま、夜の闇へと消えて行った。
 
「おはよう、ビリィ」

 次の日ビリィが目覚めると、すでにドリィは出発の支度を整えていた。グローブをキュッと手にはめている。ひんやりとした朝の空気がビリィの頬を撫でる。

「……おはよう……え?」

 一瞬自分の置かれている状況がよくわからず、ビリィはパチパチと瞬きをした。しかしすぐにハッとして起き上がる。
 建物の中はもうすっかり明るく、日の出からはいくらかの時間が経ってしまっているようだった。ただ、頬を撫でる空気の冷たさが、まだ朝になってから間もないことをビリィに感じさせる。
「……起こしてくれてよかったのに」
 暫く何を言ったものか思案して、しかし言えたのはそれだけだった。ドリィはクスクスと笑う。
「起こしたわよ。でも、ビリィったらどんなに叩いてもビクともしないんだもん。よっぽど昨日の徹夜が堪えてたのね」
「う……」
 ビリィは居たたまれず口を噤む。恥ずかしいような、それでいて暖かいような、そんなくすぐったい気持ちが胸の奥で燻っていた。なんだか懐かしい気持ちがする、そんな会話だった。
「十年前の地図では、まだ次の村まで随分距離があるわ。食料は節約して……ああ、まだ宿のおじさんにもらった山羊の乳があるから、それだけ傷む前に飲んでしまいましょう。」
 ドリィに差し出されたコップを受け取って、ぐいと口の中に流し込む。ごくりと飲み込むと、はたと気が付いたように聞いた。

「そういえば、昨日寝る前にドリィに何か聞いた気がするんだけど……覚えてるかい?」
「ビリィが自分で聞いたことを忘れてるのに、私が覚えてるわけないじゃない。寝ぼけてるんじゃない?」
 ドリィは笑って言った。ビリィは「そうだったかな」と頭に手をやると首を傾げる。
「さぁ、出発しましょう」
 ドリィの言葉に、ビリィは不安げに瞳を揺らした。
「……ドリィ、本当にこの先に村なんてあるのかい?」
 それは、ビリィにとってはできれば考えたくはないことだった。しかし、昨日出発したハルーカの街より西向こうにかつてあったはずの村や街について、情報が全く入ってこないことも事実だった。
 ハルーカの街を離れる時、宿屋の主人が不安げに話していた言葉が胸の内に蘇る。

『アビスがこの世界に現れて随分経って、確かに旅人の数は随分減った。どこに行ったって逃げられるものじゃないし、アビスのせいで滞在できる町や村が減って旅自体が難しくなったのもある。しかし、いないわけじゃないんだ。うちの宿屋にだって、あんたたちみたいに人が泊まりに来ることはある。ただ、それは全員東からなんだよ。
 そしてそのほとんどはこのハルーカの街でUターンしてまた東に帰っていく。そして、残りの西へ向かった人たちが……またハルーカの街へ戻ってきたことは10年前から一度もない。あんたたち、本当に西へ行くのかい』

 ビリィは目を伏せる。胸に置いた手がぎゅっと握られた。歩を進めようとしていた足が竦む。
 ドリィはそんなビリィを見上げ、パンパンとズボンの尻を叩いて立ち上がった。
「そうね。アビスが現れてすぐに滅ぼされた村や街は多くて、とても把握できるものじゃない。特に西の方は被害が大きくて、ハルーカの街より向こうにはもう何も残っていないって言う人もいるわ」
「なら、」
「……もしそうだとしても、その時はまっすぐコルマガ王国を目指すだけの話よ」
 ドリィは西の空に輝く虹を見据えてハッキリと言った。ビリィからは背中しか見えなかったが、その声はあまりにも真っ直ぐでぐっと胸が締め付けられるような心地がした。
「……それは、アビスが最初に現れたのが、コルマガ王国だということと関係があるのかい?」
 ビリィは言葉を選んで、やっとそれだけを聞いた。昨日のドリィとの会話が蘇った。

 それとも、彼女もまた。

「そうね。昨日出発するときも言ったけど――アビスは、近頃すっかり西の地にしか姿を現さなくなっているわ。まるでコルマガ王国を目指すかのように。この先にたとえもう人が住んでいないとしても、きっと、まだ、コルマガ王国には『何か』ある」
 ヒラヒラとドリィの首に結ばれたリボンが揺れていた。乾いた砂を巻き上げるように風が吹き抜けていた。ビリィは暫くドリィの背中を見つめていたが、やがて後を追うように立ち上がった。
「それとも、アビス達も帰ろうとしているのかな。――自分の、生まれた土地へ」
 ドリィの肩がピクリと上がった。ビリィはドリィの隣に立つ。見下ろした視線の先に見えた表情は、やはり感情を押し殺したように静かだった。琥珀色の瞳がそっと閉じられて、ドリィは自嘲するように笑った。
「……そうね、そう、そうかもしれないわ」
 

 
***
 
 それからの道中は非常にスムーズに進んだ。谷間のため道が平淡なのも幸いして、途中何度かの野宿をしたものの、数日後にはハルーカの街からは随分離れたところまで進むことができた。
「あら、」
 ふいにドリィが気づいたように足を止めた。ビリィもそれに倣うと、足元には緑の草がところどころに生えるようになっていた。
「珍しいわね、こんなところで」
 ドリィが興味を持ってしゃがみこんだ。降雨量が非常に少ないこの地方では、植物……特に緑の草木はほとんど生えないと言っていい。
「もしかして、近くに池や湖があるのかしら」
 ドリィの言葉に、ビリィははたとあることに思い至った。
「ルドラの村が近いんじゃないかい。あそこは確かこの辺じゃ珍しいぐらい大きな湖があったはずだよ」
 ビリィが崖を見上げると、確かにあちこちに蔦や草が生い茂っている。改めて進む方向に視線をやると、谷間の幅は少しずつ広くなっているようだった。ゆっくりと道がカーブを描いている。
「ルドラの村……」
 ドリィは手に持った地図を広げた。ビリィもそれを覗きこむ。
「ほら、ここがハルーカの街。西に向かってずっと歩いてきたから……この崖を抜けたところにルドラの村があるはずだよ」
 ドリィは何か考えるように視線を下げ、また顔を上げた。
「そう……そうね」
対してビリィの声は弾んでいる。
「ルドラの村なら何度か行ったことがあるよ。僕の住んでいたエストからも近かったからね。この調子だと、今日中に着くんじゃないかな」
 そわそわとビリィは手を空に彷徨わせた。いつの間にか口角が上がっている。帰ってきたのだ、その思いがビリィの胸に満ちていた。気づいたら歩調も速くなっていた。

「ビリィ、待っ、」
 ドリィが慌ててその背中を追おうとした。その瞬間、視界に入ったものにドリィは大きく目を見開く。
「ドリィ?」
 ドリィの様子に気づいたビリィが振り返る。そして、ただ一点を凝視するドリィの視線の先を見て、

 そしてビリィも、「それ」に気づいた。

「……まさか……」
 緩やかなカーブを描く岩肌。その壁の隅にちょこんと座っているそれは、確かに人であった。少し浅黒い肌に、うす水色の髪の毛は肩に届かないぐらいの長さだった。袖のない服からむき出しの腕には、まるで手錠のように大きな腕輪がつけられていた。遠目からではよくわからなかったが、しかしあまり年がいっていないような、いや、もしかしたらドリィよりも幼いかもしれなかった。
「きみ、」
 ビリィが駆け寄ろうとした時、向こうもこちらに気が付いたようだった。ハッと顔を上げると、すぐに岩壁の向こうに姿を隠した。
「ちょ、ちょっと!」
 ビリィはすぐに後を追いかけた。ドリィも後に続く。カーブを越えて広がった景色の向こうで、その子どもの後ろ姿はもう随分小さくなっている。
「なんて早いんだ……!」
 やがて、谷間にも終わりが見えてきた。高い崖が行く手を阻んでいる。これで追いつける、ビリィがそう思ったのもつかの間、その子どもはなんのためらいもなく崖に手をかけて登りだした。
「ちょ、ま、早……っ!」
 崖のぼりでさえも信じられないような速さで次々に突起に手足をひっかけて登っていくその姿に、ビリィは思わず感嘆の溜息を洩らした。しかしさすがに走るようにはいかないようで、ビリィ達との距離は少しずつ縮まっていく。それにつれ、子どもの姿はだんだんと鮮明になっていった。

「待って、君は」

 手を伸ばすと同時に、ビリィは奇妙な既視感を抱いた。ずっと前にそうやって誰かを追いかけて、そう、その相手は、今見ている後ろ姿にとてもよく似ているような……。

「……ルッカ?」

 ゆるゆるとビリィの足が止まる。絞り出すように放った声は、しかし相手にも届いたのだろうか。今にも崖の頂上に手をかけようとしていたその子どもはピタリと動きを止めた。
「……、……?」
 何か呟きながらビリィ達の方を振り向く。初めてはっきりと見えたその顔に、ビリィは息を呑んだ。

「ビリィ、さっきの子どもは……」
 あとから駆けてきたドリィも足を止める。崖の上を見上げ、深く長いため息をついた。しかしその息はとても細く、彼女もまた、目の前の光景に絶望していることは容易に想像できた。
「……ルッカ……、君、ルッカなのかい?」
 暫く放心したかのように子どもを見上げていたビリィは、やっとそれだけを聞いた。水色の髪の少年はまだその場を動かず、困ったような顔をして首を傾げている。しかし、やがてひとつの言葉を呟いた。
 
「ビリィ?」
 
 ビリィの目が見開く。知らず震えだした手を強く握りしめた。そして、感動の再会を果たしたはずの『友人』の姿をじっと目に焼き付ける。
「ビリィ……もしかしてあの子は、まさか」
 背中からドリィが恐る恐る声をかけた。その震える声は、何に対しての恐怖だっただろうか。彼女もまた、その子どもの“異様な”姿を見ていた。
 痩せ細った手足には太くて重い腕輪がつけられて、最早服の体を成しているかも怪しいほどのボロ布を身にまとっている。立ち止まって今、近くでまじまじと見てこそ、よりそれらは小さな子供が身に着けるには似つかわしくないものであるように見えた。
しかし、それらを遥かに凌駕するほどに恐ろしいものが少年の額にはついていた。角だ。
乳白色に輝くその歪な形を、ビリィはよく知っていた。そう、それはつい最近、砂漠の中に墓標として立ててきた、
 
「アビスの、角……?」
 
びくり。痩せ細った小さな体が跳ねた。あっという間に崖を登り切り、その向こうへと飛び越える。
 
「あ……!ルッカ!」
慌てて再度呼びかけるが、消えてしまったその子どもが戻ってくることはなかった。ビリィは歯噛みすると、大きく地面を蹴って崖に手をかける。
「ビリィ!」
ドリィが咎めるように叫んだが、その声も聞こえないかのようにビリィは駆けていく。確認しなければならなかった。彼が本当にかつての自分の友人ならば、あの姿は。
 
頭の中で色々な考えがぐるぐると渦巻いて、ビリィは今、自分がどんな顔をしているかさえわからなかった。崖はいたるところに岩が飛び出していて、思ったよりも容易に登ることができた。それでも先程の子どもの速さは人間離れをしていたが。手の甲ほどの幅があるあんなに重そうな枷を手足に付けながら、なぜあんなにも俊敏な動きが出来るのか。それは、額から生えていたあのアビスの角に関係しているのだろうか。
 
崖の頂上に手がかかる。そのまま力を加え、崖の上に身を起こした。その向こうに広がった景色に、ビリィは息を呑む。
 
懐かしい景色だった。砂漠の真ん中に突如現れたそのオアシスに、ビリィはぐっと喉を詰まらせる。幼いころ、何度も見たこの景色。
「……ビリィ、お願い、手を貸して……っ!」
背中から聞こえたドリィの声に、ビリィははっと我に返った。振り向くと崖の頂上近くで手を伸ばしきれずに立ち往生しているドリィの姿があった。ビリィは手を伸ばす。
「ルッカの方が背が低そうだったけどね。届かないのかい?」
「あの子だって、ジャンプしていたわよ……!」
 からかうようにビリィが声をかけると、ドリィはバツが悪そうに返した。ビリィに引っ張られてドリィも崖の上に上ると、目の前の光景に深いため息をついた。
「これが……」
 目を見開いて、そこに広がった景色を目に焼き付けるドリィに、ビリィは優しく語りかける。
「昔のままだ……十年前からちっとも変わってない。ここがルドラの村だよ、ドリィ」
 崖の向こうにはまた長い下り坂が続いていて、まず目に入ったのは大きな湖だった。
 流れ込む川がどこにもないということは、地底から湧き出ているのだろう。あまり大きくはないが、湖のまわりには木々が生い茂り、まるで湖を守っているようだった。
 荒れ果てた大地では緑の植物は早々成人の高さまでも育たない。背の高い植物はほとんどが細い葉しか茂らない茶や黄土のものばかりだ。しかし、そこは文字通り砂漠の真ん中のオアシスだった。
 久しぶりに見る鮮やかな緑の色彩に、ビリィは思わず何度も瞬きをする。

「ビリィ、あそこにあるのが……ルドラの村?」
 ドリィが指さした。ビリィの視線はずっとその先を見つめている。森の中で一か所切り開かれたその広場には、小さな家が転々と並んでいた。
「そうだよ。シジレ地方の『小さな楽園』、ルドラさ」
 ビリィはドリィの方を向いた。ドリィもビリィを見上げた。二人はどちらともなく頷いて、そしてまた前を向く。

「もしアビスが現れているなら、村自体がなくなっているはず……それなら、」
「あそこにまだ、人が住んでいる可能性はあるってことだね」
「……残っていたのね、やっぱり、村は」
 
 
 
 坂を下ると、木々の本当の大きさが徐々に姿を現してきた。
 ビリィの身長の倍あるかないかぐらいだろうか。やはり砂漠の中にあっては、湖があると言えどそう高く植物は成長できないのだろう。それでも暫くぶりに見る緑の木々の姿に、ビリィはほう、と感嘆の溜息をもらした。しっとりとつもった落ち葉に歩を進める。
「ビリィ、あなたさっき、あの子どものことをルッカと呼んでいたけど」
 崖の上からここまでずっと押し黙ったままだったドリィが俯いたまま口を開いた。先程の子どもの姿は、森の近くまで来てもとうとう見つけることはできなかった。
「……僕が生まれた村、エストは、このルドラの村から西に向かってすぐのところにあって、小さい頃は父さんに連れられてよく遊びに来ていたんだ。ルッカは、この村にいた、僕の一番の友達だった」
 ビリィは目を細めて遠い記憶に思いを馳せた。
「僕と同い年の女の子でね。すごく元気で、二人して冒険ごっこをしては父さんに怒られてた。とてもよく笑う子だったんだ」
「同い年の……そう、そうなの」
 ドリィはため息をついたが、あまり驚いたようには見えなかった。時々目の前に垂れかかる枝をよけては、二人は湖を横目に歩を進める。
「水色の髪に褐色の肌。このあたりに住んでいたはずのダダ人の、典型的な特徴よ。……見間違いだったと、いうことはない?」
 ドリィがためらいがちに問いかけた。その質問の意図は、ビリィにもよくわかっていた。先程の子どもが本当にルッカなら、あんなに幼い姿をしているはずがないのだ。どう控えめに見てもドリィより年上とは思えない。まるで十年前から全く成長していないかのように、あの角を持つ子どもはビリィの記憶の中にいる6歳のルッカそのままだった。……そう、額から聳え立つアビスの角を除いては。
 ビリィは拳をぎゅっと握りしめる。
「……僕だってそう思いたいさ。けどルッカは!僕がルッカと呼びかけたら振り向いて……僕の名前を呼んだんだ!ビリィって!ドリィだって聞いただろう!」
 叫んですぐに、はっとした顔になってビリィは「……ごめん」と視線を落とした。ドリィも一瞬驚いた顔をしたものの、「私こそ……」と言って目を伏せた。また二人の間に沈黙が流れる。
 
「……なんで、あんな角なんか……ルッカは一体どこに行ったんだ?」
 ビリィは木々の間から空を仰ぐ。ドリィもそれに習った。木々が作る影は砂漠の中にあっては暗く厚く、よりその向こうの太陽の光がまぶしく輝くようだった。
「……あ、見てビリィ。家よ」
 ふいにドリィが木々の奥を指さした。そこには、先ほどの崖の上からも見えていた、木でできていた家々があった。
「ルドラの村……」
 ビリィが呟き、歩みを速めた。枝を掻き分け、木々の間を抜け、家々が立ち並ぶ広場に出る。
「ビリィ」
 ドリィが後から追いかけてきた。そして、村の様子を見て息を呑む。ビリィもまた、力なく腕を下ろして目の前の光景を見ていた。
 
 そこには、生活の匂いが何一つ感じられない打ち捨てられた村の姿があった。
 崩れた薪の束は水分を失ってすっかりささくれ立ち、地面にバラバラと転がっている。立ち並ぶ家々の半分以上は扉が開け放たれ、その向こうは長年吹き付けた風で家具がぐちゃぐちゃに倒れてしまっていた。
 どう考えても、この村に住む人がいるとは思えそうにはない。
 
「ビリィ……」
 ドリィが心配そうにビリィの顔を覗き込む。ビリィはただ唇をぎゅっと結んで、遠い昔に思いを馳せるように村を見ていた。
「十年、か……」
ビリィがポツリと呟いた。暫く無表情のままぼんやりと目の前を眺めていたが、やがてぎゅっと拳を握るとドリィに笑いかける。
「村はこんなことになってしまってるけど……逆に考えたら、村の形が残っているということはアビスには襲われてないということだよね、ドリィ」
 ビリィの言葉に、ドリィは戸惑いがちに返す。
「え、えぇ……。きっと、コルマガ王国やその付近の村々にアビスが現れてすぐに村を捨てて逃げたのね。……仕方ないことだと思うわ。コルマガ王国・エストの村と来たら、次にアビスがルドラに来ると思うに違いないもの」
「……なら、ルドラの村の人は今もどこかで生きているかもしれない。それがわかっただけでも十分だよ」
「ビリィ……」
 ビリィは地面に転がった薪に歩み寄る。いくつか拾い上げてドリィの方へ振り向いた。
「せっかくこんなにちゃんとした形で家が残ってるんだ。今夜はここを借りて宿にしないかい?」
 ドリィは未だ何か言いたげだったが、やがてため息をついてふっと笑いかけた。
「……そうね。遺跡からしばらくはずっと野宿だったから」
 ビリィも安心したように笑い返し、ふぅ、とひとつ深呼吸をすると気を取り直そうと村の中をぐるりと見回した。
「せっかくなら、ちゃんと扉が閉まっていて中がぐちゃぐちゃになっていないような家を……、……あれは……」
 またビリィの言葉が止まり、ドリィもビリィの視線の先を見やった。
 そこには、明らかに他の家とは違う、重々しいほどの『人の意思』を感じた。扉の周りには石杭が打たれ、何重もの鎖が巻かれている。『その中にあるもの』を決して外に出すまいとするように。
「……あれ、ルッカの家だ」
「え?」
 ドリィがいぶかしげな顔をビリィに向けるより早く、ビリィは走り出していた。壁に打ち付けられている石杭を力任せに引っ張る。
「ビリィ!」
 ドリィが止める間もなく、ビリィは石杭をすべて外してしまった。ガラガラと大きな音を立てて鎖が地面に落ちる。裸になった木の扉に、ビリィはゆっくりと手を伸ばした。そして、ドアの取っ手に触れようかと言う時、
 
「やめて!!」
 
 大きな声がしてビリィの体に何か大きなものが当たった。ビリィがその聞き覚えのある声に恐る恐る視線を下ろすと、そこには水色の髪の毛の少女の姿があった。
 
「ルッカ……」
 
 ビリィの声に、少女はゆっくりと顔を上げた。
 水色の髪、青磁の瞳。痩せ細った顔の、その額には太く長い角。
 
「ビリィ……ビリィなんだよね?」
 
 少女は声を震わせた。ぶつかった拍子にそのまま背中に回していた手にぐっと力を込める。潤んだ瞳には涙が浮き上がり、唇をぎゅっと結んだ。
「ルッカ……やっぱり君、ルッカなのか」
 その声に込められた感情は、再会の喜びか、少女の姿への絶望だったのか。
 
 ドリィだけが、複雑な表情をして二人を見つめていた。
 ルッカは、実際にも6歳のままだった。
 
「ビリィ、なんでこんなにおっきくなっちゃったの?」
 本当に驚いたようにビリィを見上げて首を傾げるルッカに、ビリィは曖昧に笑い返すことしかできなかった。
「ルッカ……ルッカこそ、なんでこの村に一人でいるんだ?村のみんなは?」
「んー、いなくなっちゃったの」
 ルッカは俯くと、ぐりぐりと人差し指で地面をいじった。
「私、家に閉じ込められちゃって、なんとか外には出れたんだけど……その時にはみんないなくなってたんだ」
 ルッカの言葉に、ビリィははっとした顔をして額の角を見つめた。その視線に気づいて、ルッカはそれを手で隠そうとする。しかし、小さな手では到底その角を覆い切ることはできなかった。
 なんて無神経な物言いをしてしまったのか。自分が情けなくなってくる。
 ビリィは胸を締め付けられる思いだった。目の前の少女が、自分の幼なじみであると同時に、今もまだ年端もいかない子どもであるということが、とても信じられなかった。腕を伸ばすと、乾燥と風にさらされてすっかりごわごわになってしまっている水色の髪の毛を撫でる。
「ちょっと、照れくさいよ」
 手で払う仕草を見せながらも、ルッカははにかむように笑っていた。もうずっとこんな風に人と触れ合う機会もなかったのだろう。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 そのひとつひとつの行動が切なくて、ビリィまで泣いてしまいそうだった。
 きっと無意識なのだろう。ルッカはずっとビリィの服の裾を掴んで離さない。
「ねぇビリィ、ビリィはエストの村に帰るの?」
 ルッカの言葉に、ビリィの方がぴくりと動いた。
「私も行きたいなぁ。そしたら……、あっ!でも今日はここに泊まるんだよね?」
 一瞬、何かを思い出したようにルッカの目が見開いた。そしてぽんと手を叩くと、ビリィに向かって身を乗り出す。
「うん、そうしようかと思うよ」
 ビリィは曖昧に答えた。ルッカが「わぁい!」と万歳をする。と、その背中からドリィが歩いてきた。

「すごいわねここ。湖の水は透き通ってるし、周りには薬草もいっぱい生えてる。貯蔵庫も見つけたけど、乾燥肉がいっぱい保管されてたわ。まだ食べられるかどうかは……まぁ、半々ってところだけど」
「よかった!昔は山羊も飼ってたから、もしかしてって思ってたんだ」
 ビリィがほっとした声を上げると、ルッカもドリィの方へ振り向いた。そしてドリィの姿を確認すると、驚いたようにビリィへ向き直る。
「ビリィ、なんでお姫様と一緒にいるの?」
「えっ」
 その言葉に驚いたのはビリィの方だった。まだドリィは自分の名前を名乗ってすらいないはずだ。自分がいつの間にか呼んでいたのだろうか。
 ハルーカの宿屋の主人のように名前を聞いたならともかく、なぜ初対面のルッカがドリィのことをコルマガの姫だと言うのだろう。
「だって、ドリィ姫様でしょう?私、お父さんとコルマガ王国で見たことがあるよ」
 ルッカは首を傾げた。ビリィは何も言えずにドリィを見やる。ドリィはただ黙ってビリィを見返していて、その表情からは何の感情も感じ取ることは出来なかった。
「ドリィ、君……」
 ビリィがドリィに向かって一歩踏み出そうとする。と、固くて軽いものがお腹に当たった。見下ろすと、ルッカがうとうとと舟を漕いでいる。
「ルッカ、眠いのかい?」
 ビリィが声をかけると、ルッカは「ん~……」と答えになっていない声で唸った。それだけで言わんとするところは十分に伝わったが。
「大丈夫だから寝なよ。今日は疲れたんだろう」
 ビリィがそう声をかけると、ルッカは手をぶんぶんと振って何かを訴えようとする。
「……も、びり、……おうち」
 もうほとんど言葉にはなっていなかったが、ビリィは「わかったよ」と頷く。
「僕もどこにも行かないし、ルッカの家以外を宿に借りさせてもらおうと思うから安心して」
 それを聞いて、ルッカはほっとした表情を浮かべる。そのまますぅ、と瞼を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
 
 ビリィはドリィを見て、ルッカを見て、何を言ったものかとため息をついた。そしてもう一度ドリィの方を見る。
「宿に使えそうな家はあったかい?」
「湖の傍に他より大きな家が一軒。中もほとんど荒れてないし、ベッドも人数分ありそう」
 ドリィはやはり表情を動かさなかった。先程のルッカの言葉をどう考えているかもわからない。ビリィは一瞬大きく息を吸うが、しばらくしてそのまま吐き出した。
「村長の家だね。あそこが使えるなんて運がいいな。ありがたく泊まらせてもらおう」
 そう言ってルッカを背負うと、勝手知ったる風に歩き出した。
「行こう、ドリィ」
 その言葉にうなずくと、ドリィも黙ってそのあとに続いた。
 
 日はすでに傾き、湖が一陣の冷たい風を運んでいた。
 
 
 
「……ドリィはどう思う?ルッカのこと」
 村長宅に着き、ルッカを別室に寝かせて、ビリィはドリィに問いかけた。ドリィは先ほどからぴくりとも表情を変えない。ベッドに座り、シーツをいじりながら視線だけをビリィの方へ向けた。
「ビリィは、『アビスの落とし子』のことを知っている?」
 ビリィがびくりと肩を震わせた。あまりいい思い出がない単語だった。
「……知ってるよ。アビスに村や街を襲われながら生き残った人に対しての呼び名だろう。僕も旅に出るまで住んでいたところじゃそう言われて随分いじめられたさ」
 表情に現れる苦々しさを隠そうともせずにビリィは答えた。ドリィはやはり無表情のまま、しかしはっきりと口を開いた。
「ルッカは、アビスの落とし子だと思う」
「……!?」

 ドリィの言っている意味がわからず、ビリィは目を見開いて固くズボンを握りしめた。ドリィもビリィの胸の内を読み取ったかのように、そのまま言葉を続けた。
「『アビスの落とし子』は確かに、ビリィのようにアビスに襲われながらも『運よく』生き残った人に対してそのあまりの低い可能性に、逆に忌むべき存在として呼ぶことが多い蔑称だと思われているわ。……でも、本当の意味は違う。私も見るのは初めてだったけど、ルッカのように体にアビスの一部が生えてくる子どもが、10年前から幾人も現れているの。
 そして、その子どもたちはアビスの落とし子となったその時から決して成長しない。……ただ、そんな子どもがもし突然現れたらどうなるか……。このルドラの村とルッカを見るに、何が起こったかは大体想像がつくでしょう」

 ビリィは息を呑んだ。
 そう、それはなるべく考えずにいようと思っていたことだった。

 無造作に扉が開け放された家、打ち捨てられたような薪や生活道具。アビスから逃れるため村を捨てるにしても、ここまで焦る必要はないはずだ……そう、すぐそばにアビスが迫っているのでもない限りは。村が結局アビスに襲われずそのまま残っているということは、この村を手放す別の理由があったということだ。
 ルッカの家の扉に打ち付けられた大量の杭と、頑丈に封鎖していた鎖。それは、その家の中にあった「何か」を拒絶していたことに他ならず、……おそらく何かとは、ルッカであったのだろうことが容易に想像できた。
「アビスの落とし子ってなんなんだよ……なんでルッカがあんな姿にならなきゃいけないんだ!!」
 ビリィはベッドを拳で打ち付けた。しかし、干し草で編まれたマットレスはぼすんと気の抜けた音しか立てなかった。

 ドリィはまっすぐにビリィを見つめたまま押し黙っていたが、やがてそっと唇を開く。

「アビスの落とし子は、いつかアビスになる」
「……!」

 ビリィが考えたくなかったもうひとつの可能性。それをドリィは口にした。
「どうする?ビリィ。その剣で、ルッカを殺すことができる?」
 その言葉に、ビリィは目を見開いてドリィを見た。そんなことを言うドリィが信じられなかった。
 しかしドリィの表情は変わらず、それが冗談でもなんでもないことをビリィに告げていた。……いや、本当はわかっていたのだ。ビリィもこのことを。
「ドリィ……」
 やはりドリィは、笑いも怒りも、悲しみもしていないようだった。ただ淡々とビリィに問いかける。彼を試すように、じっと見据えながら。
「ビリィは言ったわよね。アビスを滅ぼすまで、戦い続けると誓うって」
「言ったさ……でも、でも、こんな……!」
「アビスの落とし子がアビスになるその条件はわからない。でも、アビスの落とし子である限り必ずいつかはアビスになってしまう。ビリィは、ルッカがアビスになって、この村やハルーカの街を破壊してもいいの?」
 ドリィの言葉にビリィは急激に頭が冷えていくのを感じた。頭の中で首をもたげた可能性が、ビリィに語りかけていた。成長しない子ども、アビス、コルマガ王国。
「ねぇビリィ、どうするの?」

「……ドリィこそ、どうなんだい」

 ぴくり。ドリィの肩が揺れた気がした。ビリィは落ち着かなげに彷徨わせていた視線を、ゆるゆるとドリィに定めた。
「アビスの落とし子が成長しないなら……何年も前の姿のままでずっといる人が存在するわけだ。……君、本当は本当に、ドリィ姫で……君もまた、アビスの落とし子なんじゃないのかい」
 そう、ルッカと再会したあの時からずっと心の中で燻っていた疑念を、ビリィはとうとう口にした。ルッカがドリィを「姫様」と呼んだこと……そして今、ドリィがこの話をしたことで、疑念はほぼ確信として固まりつつあった。そうだ、そうすればすべての辻褄は合うのだ。ドリィがアビスを倒す剣を持っていたことも、コルマガ王国を目指そうと言ったことも。
 ビリィの問いかけに、ドリィは黙ったままだった。ただ、琥珀色の瞳だけがビリィをまっすぐに見据えていた。
「それなら、ドリィは知っているんだろう。僕が思っている以上にアビスを、その存在を。なぜこの世界にアビスが現れたのか、なぜアビスの落とし子なんてものが存在しているのか、なぜコルマガ王国が真っ先にアビスに襲われたのか、……コルマガ王国が、アビスの誕生にどう関係しているのか、みんなみんな」
 ビリィは強い口調で話す。暫く表情を動かさずにビリィを見やっていたドリィだったが、やがて眼を閉じると大きく息を吐いた。
 
「……そうね、大体ビリィの想像通りだと思うわ。私はドリィ・マスト。コルマガ王国王家の、正当な血を継ぐ姫よ」
 
「……!」
 
 わかっていた。わかってはいたが、頭の中でふわふわと形にならずに漂っていたものをはっきりと突きつけられて、ビリィは臆したように拳を握りしめた。
「想像通り、っていうのは、アビスのことも……」
 俯いて、上目がちに言葉を紡いだ。びゅう、と風が吹いて、家をガタガタと揺らした。暗闇が少しずつ沈んでいく部屋の中で、ドリィは瞬きもせずにビリィを見ていた。
「……ビリィに、嘘はつきたくない」
 ぽつり、ドリィが呟く。数時間ぶりに瞳に感情が戻ったようだった。揺れる瞳でドリィは言葉を続ける。
「ごめんなさい、それでも……今はまだ、多くを語ることはできないの。ただ、ビリィに3つだけ約束をしてほしい」
「約束……?」
 ビリィの問いかけにドリィは頷く。そして人差し指を立てた。
「ひとつめは、私とこのままコルマガ王国まで一緒に来てほしいこと」
 ビリィは頷いた。それはハルーカでも話していたことだ。今更迷うべくもない。
 ドリィは続けて中指も立てる。二本の指をビリィに向けた。
「ふたつめは、……ルッカを、このまま殺してほしい」
「……っ!」
 ビリィは跳ねるように立ち上がると、そのままドリィの襟口をぐいと掴んだ。ドリィに噛みつきかねない勢いで怒鳴りつける。
「じゃあ、君はどうなんだ!10年前から!全く成長しない君が!アビスの落とし子だとしたら!!」
 しかしドリィは怯える様子もなかった。睨み付けるビリィに、先ほどと変わらない無表情を向けて、最後に薬指を立てて三本にする。
 
「みっつめは、」
「ドリィ!」
 
 
「コルマガ王国に着いたら、私を殺してほしい」
 
 
「……っ!?」
 
 ドリィの言葉に、ビリィは思わず掴んでいた手を放した。ドリィがベッドに尻餅をつく。そのまま三角座りをすると、「最初からそのつもりだったの」とドリィは笑った。
「ビリィが考えている通り、アビスの誕生にはコルマガ王国が大きく関わっているわ。私が成長しないままでいる理由も、ご想像通り……だと思ってる。私も」
「思ってる……?」
「わからないの。アビスの落とし子のように、私の体にはアビスの一部が現れてこない。ただ、この10年、私の体は1ミリたりとも成長しなかった。それどころか、どんなにご飯を食べずにいても、高い崖から落ちたとしても、剣で体を突き刺しても……私は、死ねなかった」
「……!」
 ビリィは驚きに目を見開いた。

 ドリィの荷物が少なかったのは、ロストテクノロジーの遺産を使っていたからだけではなかったのだ。不老不死、そんな単語が胸を掠めた。おとぎ話でしかありえなかった存在が今目の前にいるという現実に、ビリィは全てが悪い夢ではないのかとすら思った。

「私がアビスの落とし子なら、ビリィの剣で殺すことができる。コルマガ王国にたどり着いて……確認したいことがあるの。それさえ終われば、私はあなたにすべてを話すことができる。だから、」
「だから、それからのアビス退治は僕に任せて、自分はさっさと逃げようって?」
「!」
 ドリィがばっと顔を上げる。ビリィは大げさにため息をついてみせた。
「僕に嘘をつきたくないって言ってくれたけどさ、君、ハルーカで言っていたじゃないか。『私と最後まで戦ってくれるか』って。それは嘘だったのかい?」
 やれやれ、と言いたげにビリィは頭を振った。ここまできたら逆に冷静になるしかなかった。あきれたように肩を竦めるビリィを見て、ドリィは唇をきゅっと結んだ。拳が震えている。
「でも、だって、私は」
「さっきの約束で、僕が守れるのはひとつだけだ。コルマガ王国まで君と一緒に行く、それだけ。コルマガ王国に何があって、僕は何を知れるのか。それがわからない限り、僕はルッカだって、君の命だって諦められないさ」

 そう言いながらビリィは立ち上がった。そうだ。それしかない。この心に次々と浮かぶ疑問を全て解決しなければ、とても次のことを考えられそうになかった。ドリィはそんなビリィを不安げな顔で見上げる。
「ビリィ……」
 逆に、それまで険しい顔しかしていなかったビリィはにっと笑い返してみせた。
「……ルッカが目を覚まして不安がるといけないから、僕は向こうの部屋で寝ることにするよ。ドリィはどうする?」
「あ……、私は、今日はここでいいわ。もう少し、一人で考えたいから」
「そうだね。僕もそうしようかと思うよ」
 ためらいがちに答えるドリィに微笑むと、ビリィは扉を開けて部屋を出て行こうとする。その背中に、ドリィは追いすがるように叫んだ。

「ビリィ!……ルッカをこれから、どうするつもりなの?」
 ビリィはドリィに背中を向けたまま答える。
「どうもこうも、置いていけないだろう。一緒に連れて行くつもりだよ、この旅に」
「……もし、ルッカが途中でアビスになってしまったとしたら?」
 恐る恐る発せられた言葉に、ビリィは一瞬口を噤んだ。眉根を寄せるが、しかし毅然とした顔で振り返る。
「その時は殺すよ。僕がこの手で……この剣で。ルッカの友人として。約束だ」
 そしてゆっくりと扉をしめる。ぱたん。木の扉が静かな音を立てた。
 ドリィは最後までベッドから立ち上がることもできずに、ただじっと扉を見つめていた。やがて思い出したように鞄を手探ると、アビスの角を削った粉が入った袋を取り出した。

「馬鹿だなぁ、私、今何を期待したんだろう」

 袋をぎゅっと握りしめた。さらさらと澄んだ音が袋の中で鳴る。


「みんなごめんね。大丈夫……最後にはきっと、私も行くから。ビリィならきっと、叶えてくれるから」
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