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創作あれこれのお話をぽちぽちおいていく予定です。カテゴリがタイトル別になっています。記事の並びは1話→最新話。
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「ビリィは、アビスのことをどれぐらい知っているの?」
 街でもらってきた乾パンを頬張りながらドリィが問いかけた。いつの間にか陽は落ち、柱の穴から覗く空にも星が輝いている。二人の間には火炎石が熾す火が煌々と輝いていた。ビリィが倒れている間に、ドリィが見つけてきていたものだ。昨日からすっかり世話になってばかりだな、とビリィは苦笑する。炎の向こうの真っ白な顔を見やった。
「全然さ。そこらで胡散臭い宗教家が話すこと程度しか知らないよ」
 ヤギ肉の燻製を歯で噛み千切ってビリィは答えた。モグモグと咀嚼しながら話を続ける。
「目を付けられた集落は必ず滅びる、何匹もいる。集団では行動しない。《旧時代》の文献に似たような怪物の記述がある。これぐらいだよ。
 その文献だって、コルマガ王国の滅亡とともにほとんど焼けてなくなってしまったらしいから、実際どんなことが書いてあったかなんてわからないし」
 ビリィは肩をすくめる。ドリィは「そう」と言ってまた一欠けパンをちぎって口の中に入れた。

「……ドリィこそ、どれだけアビスについて知っているんだい。どうして、この剣がアビスを倒す力を持っていると知っていたんだ?それにこの剣の柄、アビスの尻尾の裏にあった模様と同じ紋様が刻まれてる。どこで手に入れたものなんだ?」
 ずっと疑問に思っていたことをビリィはドリィに問いかけた。わからないことはたくさんあった。なぜアビスの現れる場所がわかるのか、どうしてビリィをこの剣の持ち主に選んだのか、なぜ今は亡きコルマガ王国の姫の名を名乗っているのか。
「そんなにいっぺんに聴かれても困るわ」
 手に持ったコップの中の山羊の乳に落としていた視線がまたゆるゆると上がって、ドリィは困ったような笑みをビリィに向けた。
「……私がアビスについて知っていることも、ビリィとそうは変わらないわ。ただ、その剣がアビスを倒す力を秘めていて、それがいつか誰かを選んで。……そして、その人だけがアビスを倒すことができる。それだけはわかってた」
「……なぜ?」
「なぜかしらね。気が付いたら“知ってた”の。その剣もいつの間にか手元にあったものだし。全然記憶がないのよ」
 振り絞るように聞いたビリィの言葉を、ドリィはあっさりと返した。その視線は困ったように横に逸れていて、それ以上の詮索はされたくないと言いたげだった。
 ビリィは何も言えなくなってしまい、フゥと息をつく。困ったように頭をポリポリと掻いた。
「一緒に旅をするには、心許ないかしら?」
 ドリィがぽつりと呟いた言葉に、ビリィはハッとする。炎の向こうの顔を見つめたが、炎の明るさが影を飛ばすその表情は平坦で、うまく感情が読み取れなかった。
 ビリィは昨日の出会いを思い起こす。泣きそうなドリィの顔が、目の前の白い顔に重なった。
「……いや、君を信じるって決めたからね」
 自然と頬が上がる。腰に置いた剣の鞘を撫でた。
「この剣がアビスを倒す力を持っていることは確かなんだ。それは、昨日僕自身が確かめたんだから。そして、そのおかげで僕が助かったことも疑いようのない事実だ。命の恩人を信じるのは、当たり前だろう」

 ドリィは相変わらずコップを持って、感情の読めない顔をビリィに向けていた。しかし、キュッとコップの取っ手を握ると、肩に入れていた力を抜いて微笑む。
「理屈っぽい信じ方ね」
「でも、説得力があるだろう」
 ビリィも笑い返す。ドリィは「そうね……」と少し俯いて、何か思案するように目を細めた。

「……アビスについて、もうひとつ言えることがあるとするならば、」

 その声音に、ビリィの手にも思わず力が入った。
「アシンメトリィ・コミット。この星の半分を滅ぼし、そしてもう半分のほとんどの土地を今なお不毛の大地にしているあの大災害に、アビスが関わっていたことはまず間違いないと思うわ」
「……!」
 昨日街で演説をしていた宗教家の言葉を思い出した。まさかあの時否定的な態度を取っていたドリィからそんな言葉が出るとは思いもよらなかった。胡散臭い説だとばかり考えていたが、この剣を持っていたドリィの口から聞くと、信憑性が増すように思える。
 ああ、あの時あの宗教家は最後になんと言っていたのだろう?その時のドリィの言葉に気を取られて聞き損ねた自分を恨んだ。
 そんなビリィの態度を見透かしてか、ドリィは乳を一口飲むとため息をついた。
「……とは言っても、私はアビスもアシンメトリィ・コミットも神の怒りや祟りだなんて欠片も思っていないけどね」
 そして、鞄の中から古い紙の束を取り出した。
「《旧時代》の資料よ。ここまで旅をしてくる途中、少しずつ集めてきたの。……まぁ、きっとコルマガ王国に存在していた書物の数に比べたら微々たるものなんでしょうけど。
 この資料を見る限り、《旧時代》から遺された数々の伝承や文献がアシンメトリィ・コミットとアビスの存在を同時に語っているのはほぼ間違いないわ。アシンメトリィ・コミットが正確にどれぐらい昔に起こったものかはわからないけれど、アビスが現れた今、またその時が近づいているのかもしれない」
 ドリィの言葉に、ビリィはゴクリと唾を飲み込んだ。この星の半分を人が住めないまでに破壊し、残ったもう半分すら、ろくに植物すら生えない荒れ果てた大地へと変えてしまった大災害。時代が流れ、人々の記憶からその出来事が遠く消えて行っても、今なおその爪痕をこの世界に残しているのだ。
 ビリィはぐるりと建物の中を見渡した。この中にある道具や設備の殆どが、ビリィにはどう使うか見当もつかないものばかりだった。しかしその形状や、取り付けられた大小様々なボタンから、旧世界は自分たちが想像も及ばないような高水準の文明と科学力を持っていたことだけは伝わってくる。それを、ここまで完膚なきまでに崩壊させてしまうほどの大災害とは。今この世界でもう一度アシンメトリィ・コミットが起こったなら、そう考えただけで恐ろしかった。
「……まぁ、アビスが現れてからもう10年も経つし、アビスの出現が必ずしもアシンメトリィ・コミットに繋がるものではないのかもしれないけど」
 ドリィはコップの中身を飲み干した。鞄の中から小さく畳まれた布を取り出す。火に当てるとフワフワと膨らみ、人が一人包まれるだけの毛布になった。
「今日はあまり進めなかったから早めに寝ましょう、ビリィ。昼間は獣の姿をほとんど見かけなかったけど、念のため匂い消しと猛獣除けは建物の周りに張り巡らせておいたから、火が消えても大丈夫よ」
「準備がいいね……」
 ビリィは呆気にとられてそれだけを言った。ビリィ自身もここまで旅をしてきただけありある程度の知識は持っているつもりだったが、とてもドリィの手際には敵いそうもなかった。
「まぁ、この年で一人旅をするのも結構大変だしね」
 ドリィは何でもない風に答えて、薄く笑った。
 
 彼女に対しての謎は増えていくばっかりだな。そう思ってビリィはただ苦笑を返すことしかできなかった。



***

 夜の闇を煌々と照らしていた炎はすっかり消え、崩れた柱の穴から満天の星の光が二人に降り注いでいた。暗闇に慣れた目は藍色に沈む視界にぼんやりと夜の世界を映しだしている。

「……ビリィ、まだ起きてる?」
 隣で寝ていたはずのドリィの声がした。ビリィは視線を満天の星空に向けたまま答える。
「起きてるよ」
「……昨日も全然寝ていないんでしょう。早く寝ないと、また明日も倒れてかっこ悪い姿を見せることになるかもしれないわよ?」
「わかってるよ。……そっちが起きてる?って聞いたくせに」
 ビリィの膨れた声にクスクスと笑う声が聞こえた。モゾモゾと隣の毛布が動く気配がする。寝返りでも打ったのだろうか。
「ビリィは、どうして今西に来ようと思ったの?アビスを倒すためだけなら、ただアビスが現れた噂を頼りに進めばよかったのに」
「アビスが規則的な進路を取って現れないことぐらいは君だって知ってるだろ、ドリィ。そもそもあいつは一匹じゃないんだ。昨日倒したアビスだって、やつらの内のほんの一体に過ぎないんだから。アビスが現れた噂なんて、聞いたところで大して役に立たないだろう」
 少し近くで聞こえるようになったドリィの声に、ビリィは憮然として返した。二人の言葉が止まるたび、スゥ、スゥという呼吸音が夜の闇に響く。
「それでも、わざわざ東の果てから西までまっすぐ来ることはなかったでしょう?
 ……本当はビリィ、自分が生まれた村があった場所に向かっていたんじゃないの?」

 暗闇の中、ドリィの声だけが聞こえる。ビリィは輝く星々をひとつひとつ数えるように顔を動かさないまま視線だけさまよわせた。今横を見れば、きっとドリィはこっちを向いているんだろう。先程よりも近い声と気配がそれを示していた。しかし、ビリィは決してドリィの方を向かない。

「……そうだね。そんなつもりはないと思ってたけど……本当はそうだったのかもしれない。もう一度見ないと確かめられないのかな。もう、あの場所はないんだって。あんなに辛い思いをしたのに。
 ただ、どうしてか、今行ったら村があの日のまま残っているような、そんな気がしてしまうんだ」
 ビリィは観念したように呟いた。優しい声音だった。
「そう……そうね。生まれた場所だもの。帰りたいと、思うわよね」
 ドリィの声がフワフワと頭の中に入ってくる。いつの間にか瞼は重く、ゆっくりとまつ毛が下りてくる。

「ドリィは、……」

 意識が落ちる瞬間、ふと頭に浮かんだ疑問を最後まで言葉にできずにビリィは眠りに落ちた。もごもごと動いていた口はやがて寝息を立て始める。それをしばらく確認して、ドリィは「おやすみなさい」と微笑んだ。そしてまたゴソゴソと体を動かすと、今度は頭の先に置いていた鞄の口を開けた。そこから取り出したのは、白い絹で出来た小さな袋だった。口を結んでいた麻の紐をほどく。どちらもこの世界では非常に高級で手に入りづらいものだった。中から仄かな白い光が洩れる。
「……とうとう、ここまで来たわ。ここが始まりよ。絶対に、たどり着いてみせるから」
 それは、昨日ビリィに気づかれないようにそっとアビスの角からナイフで削り取った粉だった。月の光に反射してキラキラと輝いている。
 その光がドリィの瞳に反射して、ゆらりと揺れた。ドリィは少しだけ目を伏せると、また紐で袋の口を縛って鞄の中にしまう。

「……ごめんなさい」

 
 その言葉は誰に届くこともないまま、夜の闇へと消えて行った。
 
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「おはよう、ビリィ」

 次の日ビリィが目覚めると、すでにドリィは出発の支度を整えていた。グローブをキュッと手にはめている。ひんやりとした朝の空気がビリィの頬を撫でる。

「……おはよう……え?」

 一瞬自分の置かれている状況がよくわからず、ビリィはパチパチと瞬きをした。しかしすぐにハッとして起き上がる。
 建物の中はもうすっかり明るく、日の出からはいくらかの時間が経ってしまっているようだった。ただ、頬を撫でる空気の冷たさが、まだ朝になってから間もないことをビリィに感じさせる。
「……起こしてくれてよかったのに」
 暫く何を言ったものか思案して、しかし言えたのはそれだけだった。ドリィはクスクスと笑う。
「起こしたわよ。でも、ビリィったらどんなに叩いてもビクともしないんだもん。よっぽど昨日の徹夜が堪えてたのね」
「う……」
 ビリィは居たたまれず口を噤む。恥ずかしいような、それでいて暖かいような、そんなくすぐったい気持ちが胸の奥で燻っていた。なんだか懐かしい気持ちがする、そんな会話だった。
「十年前の地図では、まだ次の村まで随分距離があるわ。食料は節約して……ああ、まだ宿のおじさんにもらった山羊の乳があるから、それだけ傷む前に飲んでしまいましょう。」
 ドリィに差し出されたコップを受け取って、ぐいと口の中に流し込む。ごくりと飲み込むと、はたと気が付いたように聞いた。

「そういえば、昨日寝る前にドリィに何か聞いた気がするんだけど……覚えてるかい?」
「ビリィが自分で聞いたことを忘れてるのに、私が覚えてるわけないじゃない。寝ぼけてるんじゃない?」
 ドリィは笑って言った。ビリィは「そうだったかな」と頭に手をやると首を傾げる。
「さぁ、出発しましょう」
 ドリィの言葉に、ビリィは不安げに瞳を揺らした。
「……ドリィ、本当にこの先に村なんてあるのかい?」
 それは、ビリィにとってはできれば考えたくはないことだった。しかし、昨日出発したハルーカの街より西向こうにかつてあったはずの村や街について、情報が全く入ってこないことも事実だった。
 ハルーカの街を離れる時、宿屋の主人が不安げに話していた言葉が胸の内に蘇る。

『アビスがこの世界に現れて随分経って、確かに旅人の数は随分減った。どこに行ったって逃げられるものじゃないし、アビスのせいで滞在できる町や村が減って旅自体が難しくなったのもある。しかし、いないわけじゃないんだ。うちの宿屋にだって、あんたたちみたいに人が泊まりに来ることはある。ただ、それは全員東からなんだよ。
 そしてそのほとんどはこのハルーカの街でUターンしてまた東に帰っていく。そして、残りの西へ向かった人たちが……またハルーカの街へ戻ってきたことは10年前から一度もない。あんたたち、本当に西へ行くのかい』

 ビリィは目を伏せる。胸に置いた手がぎゅっと握られた。歩を進めようとしていた足が竦む。
 ドリィはそんなビリィを見上げ、パンパンとズボンの尻を叩いて立ち上がった。
「そうね。アビスが現れてすぐに滅ぼされた村や街は多くて、とても把握できるものじゃない。特に西の方は被害が大きくて、ハルーカの街より向こうにはもう何も残っていないって言う人もいるわ」
「なら、」
「……もしそうだとしても、その時はまっすぐコルマガ王国を目指すだけの話よ」
 ドリィは西の空に輝く虹を見据えてハッキリと言った。ビリィからは背中しか見えなかったが、その声はあまりにも真っ直ぐでぐっと胸が締め付けられるような心地がした。
「……それは、アビスが最初に現れたのが、コルマガ王国だということと関係があるのかい?」
 ビリィは言葉を選んで、やっとそれだけを聞いた。昨日のドリィとの会話が蘇った。

 それとも、彼女もまた。

「そうね。昨日出発するときも言ったけど――アビスは、近頃すっかり西の地にしか姿を現さなくなっているわ。まるでコルマガ王国を目指すかのように。この先にたとえもう人が住んでいないとしても、きっと、まだ、コルマガ王国には『何か』ある」
 ヒラヒラとドリィの首に結ばれたリボンが揺れていた。乾いた砂を巻き上げるように風が吹き抜けていた。ビリィは暫くドリィの背中を見つめていたが、やがて後を追うように立ち上がった。
「それとも、アビス達も帰ろうとしているのかな。――自分の、生まれた土地へ」
 ドリィの肩がピクリと上がった。ビリィはドリィの隣に立つ。見下ろした視線の先に見えた表情は、やはり感情を押し殺したように静かだった。琥珀色の瞳がそっと閉じられて、ドリィは自嘲するように笑った。
「……そうね、そう、そうかもしれないわ」
 

 
***
 
 それからの道中は非常にスムーズに進んだ。谷間のため道が平淡なのも幸いして、途中何度かの野宿をしたものの、数日後にはハルーカの街からは随分離れたところまで進むことができた。
「あら、」
 ふいにドリィが気づいたように足を止めた。ビリィもそれに倣うと、足元には緑の草がところどころに生えるようになっていた。
「珍しいわね、こんなところで」
 ドリィが興味を持ってしゃがみこんだ。降雨量が非常に少ないこの地方では、植物……特に緑の草木はほとんど生えないと言っていい。
「もしかして、近くに池や湖があるのかしら」
 ドリィの言葉に、ビリィははたとあることに思い至った。
「ルドラの村が近いんじゃないかい。あそこは確かこの辺じゃ珍しいぐらい大きな湖があったはずだよ」
 ビリィが崖を見上げると、確かにあちこちに蔦や草が生い茂っている。改めて進む方向に視線をやると、谷間の幅は少しずつ広くなっているようだった。ゆっくりと道がカーブを描いている。
「ルドラの村……」
 ドリィは手に持った地図を広げた。ビリィもそれを覗きこむ。
「ほら、ここがハルーカの街。西に向かってずっと歩いてきたから……この崖を抜けたところにルドラの村があるはずだよ」
 ドリィは何か考えるように視線を下げ、また顔を上げた。
「そう……そうね」
対してビリィの声は弾んでいる。
「ルドラの村なら何度か行ったことがあるよ。僕の住んでいたエストからも近かったからね。この調子だと、今日中に着くんじゃないかな」
 そわそわとビリィは手を空に彷徨わせた。いつの間にか口角が上がっている。帰ってきたのだ、その思いがビリィの胸に満ちていた。気づいたら歩調も速くなっていた。

「ビリィ、待っ、」
 ドリィが慌ててその背中を追おうとした。その瞬間、視界に入ったものにドリィは大きく目を見開く。
「ドリィ?」
 ドリィの様子に気づいたビリィが振り返る。そして、ただ一点を凝視するドリィの視線の先を見て、

 そしてビリィも、「それ」に気づいた。

「……まさか……」
 緩やかなカーブを描く岩肌。その壁の隅にちょこんと座っているそれは、確かに人であった。少し浅黒い肌に、うす水色の髪の毛は肩に届かないぐらいの長さだった。袖のない服からむき出しの腕には、まるで手錠のように大きな腕輪がつけられていた。遠目からではよくわからなかったが、しかしあまり年がいっていないような、いや、もしかしたらドリィよりも幼いかもしれなかった。
「きみ、」
 ビリィが駆け寄ろうとした時、向こうもこちらに気が付いたようだった。ハッと顔を上げると、すぐに岩壁の向こうに姿を隠した。
「ちょ、ちょっと!」
 ビリィはすぐに後を追いかけた。ドリィも後に続く。カーブを越えて広がった景色の向こうで、その子どもの後ろ姿はもう随分小さくなっている。
「なんて早いんだ……!」
 やがて、谷間にも終わりが見えてきた。高い崖が行く手を阻んでいる。これで追いつける、ビリィがそう思ったのもつかの間、その子どもはなんのためらいもなく崖に手をかけて登りだした。
「ちょ、ま、早……っ!」
 崖のぼりでさえも信じられないような速さで次々に突起に手足をひっかけて登っていくその姿に、ビリィは思わず感嘆の溜息を洩らした。しかしさすがに走るようにはいかないようで、ビリィ達との距離は少しずつ縮まっていく。それにつれ、子どもの姿はだんだんと鮮明になっていった。

「待って、君は」

 手を伸ばすと同時に、ビリィは奇妙な既視感を抱いた。ずっと前にそうやって誰かを追いかけて、そう、その相手は、今見ている後ろ姿にとてもよく似ているような……。

「……ルッカ?」

 ゆるゆるとビリィの足が止まる。絞り出すように放った声は、しかし相手にも届いたのだろうか。今にも崖の頂上に手をかけようとしていたその子どもはピタリと動きを止めた。
「……、……?」
 何か呟きながらビリィ達の方を振り向く。初めてはっきりと見えたその顔に、ビリィは息を呑んだ。

「ビリィ、さっきの子どもは……」
 あとから駆けてきたドリィも足を止める。崖の上を見上げ、深く長いため息をついた。しかしその息はとても細く、彼女もまた、目の前の光景に絶望していることは容易に想像できた。
「……ルッカ……、君、ルッカなのかい?」
 暫く放心したかのように子どもを見上げていたビリィは、やっとそれだけを聞いた。水色の髪の少年はまだその場を動かず、困ったような顔をして首を傾げている。しかし、やがてひとつの言葉を呟いた。
 
「ビリィ?」
 
 ビリィの目が見開く。知らず震えだした手を強く握りしめた。そして、感動の再会を果たしたはずの『友人』の姿をじっと目に焼き付ける。
「ビリィ……もしかしてあの子は、まさか」
 背中からドリィが恐る恐る声をかけた。その震える声は、何に対しての恐怖だっただろうか。彼女もまた、その子どもの“異様な”姿を見ていた。
 痩せ細った手足には太くて重い腕輪がつけられて、最早服の体を成しているかも怪しいほどのボロ布を身にまとっている。立ち止まって今、近くでまじまじと見てこそ、よりそれらは小さな子供が身に着けるには似つかわしくないものであるように見えた。
しかし、それらを遥かに凌駕するほどに恐ろしいものが少年の額にはついていた。角だ。
乳白色に輝くその歪な形を、ビリィはよく知っていた。そう、それはつい最近、砂漠の中に墓標として立ててきた、
 
「アビスの、角……?」
 
びくり。痩せ細った小さな体が跳ねた。あっという間に崖を登り切り、その向こうへと飛び越える。
 
「あ……!ルッカ!」
慌てて再度呼びかけるが、消えてしまったその子どもが戻ってくることはなかった。ビリィは歯噛みすると、大きく地面を蹴って崖に手をかける。
「ビリィ!」
ドリィが咎めるように叫んだが、その声も聞こえないかのようにビリィは駆けていく。確認しなければならなかった。彼が本当にかつての自分の友人ならば、あの姿は。
 
頭の中で色々な考えがぐるぐると渦巻いて、ビリィは今、自分がどんな顔をしているかさえわからなかった。崖はいたるところに岩が飛び出していて、思ったよりも容易に登ることができた。それでも先程の子どもの速さは人間離れをしていたが。手の甲ほどの幅があるあんなに重そうな枷を手足に付けながら、なぜあんなにも俊敏な動きが出来るのか。それは、額から生えていたあのアビスの角に関係しているのだろうか。
 
崖の頂上に手がかかる。そのまま力を加え、崖の上に身を起こした。その向こうに広がった景色に、ビリィは息を呑む。
 
懐かしい景色だった。砂漠の真ん中に突如現れたそのオアシスに、ビリィはぐっと喉を詰まらせる。幼いころ、何度も見たこの景色。
「……ビリィ、お願い、手を貸して……っ!」
背中から聞こえたドリィの声に、ビリィははっと我に返った。振り向くと崖の頂上近くで手を伸ばしきれずに立ち往生しているドリィの姿があった。ビリィは手を伸ばす。
「ルッカの方が背が低そうだったけどね。届かないのかい?」
「あの子だって、ジャンプしていたわよ……!」
 からかうようにビリィが声をかけると、ドリィはバツが悪そうに返した。ビリィに引っ張られてドリィも崖の上に上ると、目の前の光景に深いため息をついた。
「これが……」
 目を見開いて、そこに広がった景色を目に焼き付けるドリィに、ビリィは優しく語りかける。
「昔のままだ……十年前からちっとも変わってない。ここがルドラの村だよ、ドリィ」
 崖の向こうにはまた長い下り坂が続いていて、まず目に入ったのは大きな湖だった。
 流れ込む川がどこにもないということは、地底から湧き出ているのだろう。あまり大きくはないが、湖のまわりには木々が生い茂り、まるで湖を守っているようだった。
 荒れ果てた大地では緑の植物は早々成人の高さまでも育たない。背の高い植物はほとんどが細い葉しか茂らない茶や黄土のものばかりだ。しかし、そこは文字通り砂漠の真ん中のオアシスだった。
 久しぶりに見る鮮やかな緑の色彩に、ビリィは思わず何度も瞬きをする。

「ビリィ、あそこにあるのが……ルドラの村?」
 ドリィが指さした。ビリィの視線はずっとその先を見つめている。森の中で一か所切り開かれたその広場には、小さな家が転々と並んでいた。
「そうだよ。シジレ地方の『小さな楽園』、ルドラさ」
 ビリィはドリィの方を向いた。ドリィもビリィを見上げた。二人はどちらともなく頷いて、そしてまた前を向く。

「もしアビスが現れているなら、村自体がなくなっているはず……それなら、」
「あそこにまだ、人が住んでいる可能性はあるってことだね」
「……残っていたのね、やっぱり、村は」
 
 
 
 坂を下ると、木々の本当の大きさが徐々に姿を現してきた。
 ビリィの身長の倍あるかないかぐらいだろうか。やはり砂漠の中にあっては、湖があると言えどそう高く植物は成長できないのだろう。それでも暫くぶりに見る緑の木々の姿に、ビリィはほう、と感嘆の溜息をもらした。しっとりとつもった落ち葉に歩を進める。
「ビリィ、あなたさっき、あの子どものことをルッカと呼んでいたけど」
 崖の上からここまでずっと押し黙ったままだったドリィが俯いたまま口を開いた。先程の子どもの姿は、森の近くまで来てもとうとう見つけることはできなかった。
「……僕が生まれた村、エストは、このルドラの村から西に向かってすぐのところにあって、小さい頃は父さんに連れられてよく遊びに来ていたんだ。ルッカは、この村にいた、僕の一番の友達だった」
 ビリィは目を細めて遠い記憶に思いを馳せた。
「僕と同い年の女の子でね。すごく元気で、二人して冒険ごっこをしては父さんに怒られてた。とてもよく笑う子だったんだ」
「同い年の……そう、そうなの」
 ドリィはため息をついたが、あまり驚いたようには見えなかった。時々目の前に垂れかかる枝をよけては、二人は湖を横目に歩を進める。
「水色の髪に褐色の肌。このあたりに住んでいたはずのダダ人の、典型的な特徴よ。……見間違いだったと、いうことはない?」
 ドリィがためらいがちに問いかけた。その質問の意図は、ビリィにもよくわかっていた。先程の子どもが本当にルッカなら、あんなに幼い姿をしているはずがないのだ。どう控えめに見てもドリィより年上とは思えない。まるで十年前から全く成長していないかのように、あの角を持つ子どもはビリィの記憶の中にいる6歳のルッカそのままだった。……そう、額から聳え立つアビスの角を除いては。
 ビリィは拳をぎゅっと握りしめる。
「……僕だってそう思いたいさ。けどルッカは!僕がルッカと呼びかけたら振り向いて……僕の名前を呼んだんだ!ビリィって!ドリィだって聞いただろう!」
 叫んですぐに、はっとした顔になってビリィは「……ごめん」と視線を落とした。ドリィも一瞬驚いた顔をしたものの、「私こそ……」と言って目を伏せた。また二人の間に沈黙が流れる。
 
「……なんで、あんな角なんか……ルッカは一体どこに行ったんだ?」
 ビリィは木々の間から空を仰ぐ。ドリィもそれに習った。木々が作る影は砂漠の中にあっては暗く厚く、よりその向こうの太陽の光がまぶしく輝くようだった。
「……あ、見てビリィ。家よ」
 ふいにドリィが木々の奥を指さした。そこには、先ほどの崖の上からも見えていた、木でできていた家々があった。
「ルドラの村……」
 ビリィが呟き、歩みを速めた。枝を掻き分け、木々の間を抜け、家々が立ち並ぶ広場に出る。
「ビリィ」
 ドリィが後から追いかけてきた。そして、村の様子を見て息を呑む。ビリィもまた、力なく腕を下ろして目の前の光景を見ていた。
 
 そこには、生活の匂いが何一つ感じられない打ち捨てられた村の姿があった。
 崩れた薪の束は水分を失ってすっかりささくれ立ち、地面にバラバラと転がっている。立ち並ぶ家々の半分以上は扉が開け放たれ、その向こうは長年吹き付けた風で家具がぐちゃぐちゃに倒れてしまっていた。
 どう考えても、この村に住む人がいるとは思えそうにはない。
 
「ビリィ……」
 ドリィが心配そうにビリィの顔を覗き込む。ビリィはただ唇をぎゅっと結んで、遠い昔に思いを馳せるように村を見ていた。
「十年、か……」
ビリィがポツリと呟いた。暫く無表情のままぼんやりと目の前を眺めていたが、やがてぎゅっと拳を握るとドリィに笑いかける。
「村はこんなことになってしまってるけど……逆に考えたら、村の形が残っているということはアビスには襲われてないということだよね、ドリィ」
 ビリィの言葉に、ドリィは戸惑いがちに返す。
「え、えぇ……。きっと、コルマガ王国やその付近の村々にアビスが現れてすぐに村を捨てて逃げたのね。……仕方ないことだと思うわ。コルマガ王国・エストの村と来たら、次にアビスがルドラに来ると思うに違いないもの」
「……なら、ルドラの村の人は今もどこかで生きているかもしれない。それがわかっただけでも十分だよ」
「ビリィ……」
 ビリィは地面に転がった薪に歩み寄る。いくつか拾い上げてドリィの方へ振り向いた。
「せっかくこんなにちゃんとした形で家が残ってるんだ。今夜はここを借りて宿にしないかい?」
 ドリィは未だ何か言いたげだったが、やがてため息をついてふっと笑いかけた。
「……そうね。遺跡からしばらくはずっと野宿だったから」
 ビリィも安心したように笑い返し、ふぅ、とひとつ深呼吸をすると気を取り直そうと村の中をぐるりと見回した。
「せっかくなら、ちゃんと扉が閉まっていて中がぐちゃぐちゃになっていないような家を……、……あれは……」
 またビリィの言葉が止まり、ドリィもビリィの視線の先を見やった。
 そこには、明らかに他の家とは違う、重々しいほどの『人の意思』を感じた。扉の周りには石杭が打たれ、何重もの鎖が巻かれている。『その中にあるもの』を決して外に出すまいとするように。
「……あれ、ルッカの家だ」
「え?」
 ドリィがいぶかしげな顔をビリィに向けるより早く、ビリィは走り出していた。壁に打ち付けられている石杭を力任せに引っ張る。
「ビリィ!」
 ドリィが止める間もなく、ビリィは石杭をすべて外してしまった。ガラガラと大きな音を立てて鎖が地面に落ちる。裸になった木の扉に、ビリィはゆっくりと手を伸ばした。そして、ドアの取っ手に触れようかと言う時、
 
「やめて!!」
 
 大きな声がしてビリィの体に何か大きなものが当たった。ビリィがその聞き覚えのある声に恐る恐る視線を下ろすと、そこには水色の髪の毛の少女の姿があった。
 
「ルッカ……」
 
 ビリィの声に、少女はゆっくりと顔を上げた。
 水色の髪、青磁の瞳。痩せ細った顔の、その額には太く長い角。
 
「ビリィ……ビリィなんだよね?」
 
 少女は声を震わせた。ぶつかった拍子にそのまま背中に回していた手にぐっと力を込める。潤んだ瞳には涙が浮き上がり、唇をぎゅっと結んだ。
「ルッカ……やっぱり君、ルッカなのか」
 その声に込められた感情は、再会の喜びか、少女の姿への絶望だったのか。
 
 ドリィだけが、複雑な表情をして二人を見つめていた。
 ルッカは、実際にも6歳のままだった。
 
「ビリィ、なんでこんなにおっきくなっちゃったの?」
 本当に驚いたようにビリィを見上げて首を傾げるルッカに、ビリィは曖昧に笑い返すことしかできなかった。
「ルッカ……ルッカこそ、なんでこの村に一人でいるんだ?村のみんなは?」
「んー、いなくなっちゃったの」
 ルッカは俯くと、ぐりぐりと人差し指で地面をいじった。
「私、家に閉じ込められちゃって、なんとか外には出れたんだけど……その時にはみんないなくなってたんだ」
 ルッカの言葉に、ビリィははっとした顔をして額の角を見つめた。その視線に気づいて、ルッカはそれを手で隠そうとする。しかし、小さな手では到底その角を覆い切ることはできなかった。
 なんて無神経な物言いをしてしまったのか。自分が情けなくなってくる。
 ビリィは胸を締め付けられる思いだった。目の前の少女が、自分の幼なじみであると同時に、今もまだ年端もいかない子どもであるということが、とても信じられなかった。腕を伸ばすと、乾燥と風にさらされてすっかりごわごわになってしまっている水色の髪の毛を撫でる。
「ちょっと、照れくさいよ」
 手で払う仕草を見せながらも、ルッカははにかむように笑っていた。もうずっとこんな風に人と触れ合う機会もなかったのだろう。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 そのひとつひとつの行動が切なくて、ビリィまで泣いてしまいそうだった。
 きっと無意識なのだろう。ルッカはずっとビリィの服の裾を掴んで離さない。
「ねぇビリィ、ビリィはエストの村に帰るの?」
 ルッカの言葉に、ビリィの方がぴくりと動いた。
「私も行きたいなぁ。そしたら……、あっ!でも今日はここに泊まるんだよね?」
 一瞬、何かを思い出したようにルッカの目が見開いた。そしてぽんと手を叩くと、ビリィに向かって身を乗り出す。
「うん、そうしようかと思うよ」
 ビリィは曖昧に答えた。ルッカが「わぁい!」と万歳をする。と、その背中からドリィが歩いてきた。

「すごいわねここ。湖の水は透き通ってるし、周りには薬草もいっぱい生えてる。貯蔵庫も見つけたけど、乾燥肉がいっぱい保管されてたわ。まだ食べられるかどうかは……まぁ、半々ってところだけど」
「よかった!昔は山羊も飼ってたから、もしかしてって思ってたんだ」
 ビリィがほっとした声を上げると、ルッカもドリィの方へ振り向いた。そしてドリィの姿を確認すると、驚いたようにビリィへ向き直る。
「ビリィ、なんでお姫様と一緒にいるの?」
「えっ」
 その言葉に驚いたのはビリィの方だった。まだドリィは自分の名前を名乗ってすらいないはずだ。自分がいつの間にか呼んでいたのだろうか。
 ハルーカの宿屋の主人のように名前を聞いたならともかく、なぜ初対面のルッカがドリィのことをコルマガの姫だと言うのだろう。
「だって、ドリィ姫様でしょう?私、お父さんとコルマガ王国で見たことがあるよ」
 ルッカは首を傾げた。ビリィは何も言えずにドリィを見やる。ドリィはただ黙ってビリィを見返していて、その表情からは何の感情も感じ取ることは出来なかった。
「ドリィ、君……」
 ビリィがドリィに向かって一歩踏み出そうとする。と、固くて軽いものがお腹に当たった。見下ろすと、ルッカがうとうとと舟を漕いでいる。
「ルッカ、眠いのかい?」
 ビリィが声をかけると、ルッカは「ん~……」と答えになっていない声で唸った。それだけで言わんとするところは十分に伝わったが。
「大丈夫だから寝なよ。今日は疲れたんだろう」
 ビリィがそう声をかけると、ルッカは手をぶんぶんと振って何かを訴えようとする。
「……も、びり、……おうち」
 もうほとんど言葉にはなっていなかったが、ビリィは「わかったよ」と頷く。
「僕もどこにも行かないし、ルッカの家以外を宿に借りさせてもらおうと思うから安心して」
 それを聞いて、ルッカはほっとした表情を浮かべる。そのまますぅ、と瞼を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
 
 ビリィはドリィを見て、ルッカを見て、何を言ったものかとため息をついた。そしてもう一度ドリィの方を見る。
「宿に使えそうな家はあったかい?」
「湖の傍に他より大きな家が一軒。中もほとんど荒れてないし、ベッドも人数分ありそう」
 ドリィはやはり表情を動かさなかった。先程のルッカの言葉をどう考えているかもわからない。ビリィは一瞬大きく息を吸うが、しばらくしてそのまま吐き出した。
「村長の家だね。あそこが使えるなんて運がいいな。ありがたく泊まらせてもらおう」
 そう言ってルッカを背負うと、勝手知ったる風に歩き出した。
「行こう、ドリィ」
 その言葉にうなずくと、ドリィも黙ってそのあとに続いた。
 
 日はすでに傾き、湖が一陣の冷たい風を運んでいた。
 
 
 
「……ドリィはどう思う?ルッカのこと」
 村長宅に着き、ルッカを別室に寝かせて、ビリィはドリィに問いかけた。ドリィは先ほどからぴくりとも表情を変えない。ベッドに座り、シーツをいじりながら視線だけをビリィの方へ向けた。
「ビリィは、『アビスの落とし子』のことを知っている?」
 ビリィがびくりと肩を震わせた。あまりいい思い出がない単語だった。
「……知ってるよ。アビスに村や街を襲われながら生き残った人に対しての呼び名だろう。僕も旅に出るまで住んでいたところじゃそう言われて随分いじめられたさ」
 表情に現れる苦々しさを隠そうともせずにビリィは答えた。ドリィはやはり無表情のまま、しかしはっきりと口を開いた。
「ルッカは、アビスの落とし子だと思う」
「……!?」

 ドリィの言っている意味がわからず、ビリィは目を見開いて固くズボンを握りしめた。ドリィもビリィの胸の内を読み取ったかのように、そのまま言葉を続けた。
「『アビスの落とし子』は確かに、ビリィのようにアビスに襲われながらも『運よく』生き残った人に対してそのあまりの低い可能性に、逆に忌むべき存在として呼ぶことが多い蔑称だと思われているわ。……でも、本当の意味は違う。私も見るのは初めてだったけど、ルッカのように体にアビスの一部が生えてくる子どもが、10年前から幾人も現れているの。
 そして、その子どもたちはアビスの落とし子となったその時から決して成長しない。……ただ、そんな子どもがもし突然現れたらどうなるか……。このルドラの村とルッカを見るに、何が起こったかは大体想像がつくでしょう」

 ビリィは息を呑んだ。
 そう、それはなるべく考えずにいようと思っていたことだった。

 無造作に扉が開け放された家、打ち捨てられたような薪や生活道具。アビスから逃れるため村を捨てるにしても、ここまで焦る必要はないはずだ……そう、すぐそばにアビスが迫っているのでもない限りは。村が結局アビスに襲われずそのまま残っているということは、この村を手放す別の理由があったということだ。
 ルッカの家の扉に打ち付けられた大量の杭と、頑丈に封鎖していた鎖。それは、その家の中にあった「何か」を拒絶していたことに他ならず、……おそらく何かとは、ルッカであったのだろうことが容易に想像できた。
「アビスの落とし子ってなんなんだよ……なんでルッカがあんな姿にならなきゃいけないんだ!!」
 ビリィはベッドを拳で打ち付けた。しかし、干し草で編まれたマットレスはぼすんと気の抜けた音しか立てなかった。

 ドリィはまっすぐにビリィを見つめたまま押し黙っていたが、やがてそっと唇を開く。

「アビスの落とし子は、いつかアビスになる」
「……!」

 ビリィが考えたくなかったもうひとつの可能性。それをドリィは口にした。
「どうする?ビリィ。その剣で、ルッカを殺すことができる?」
 その言葉に、ビリィは目を見開いてドリィを見た。そんなことを言うドリィが信じられなかった。
 しかしドリィの表情は変わらず、それが冗談でもなんでもないことをビリィに告げていた。……いや、本当はわかっていたのだ。ビリィもこのことを。
「ドリィ……」
 やはりドリィは、笑いも怒りも、悲しみもしていないようだった。ただ淡々とビリィに問いかける。彼を試すように、じっと見据えながら。
「ビリィは言ったわよね。アビスを滅ぼすまで、戦い続けると誓うって」
「言ったさ……でも、でも、こんな……!」
「アビスの落とし子がアビスになるその条件はわからない。でも、アビスの落とし子である限り必ずいつかはアビスになってしまう。ビリィは、ルッカがアビスになって、この村やハルーカの街を破壊してもいいの?」
 ドリィの言葉にビリィは急激に頭が冷えていくのを感じた。頭の中で首をもたげた可能性が、ビリィに語りかけていた。成長しない子ども、アビス、コルマガ王国。
「ねぇビリィ、どうするの?」

「……ドリィこそ、どうなんだい」

 ぴくり。ドリィの肩が揺れた気がした。ビリィは落ち着かなげに彷徨わせていた視線を、ゆるゆるとドリィに定めた。
「アビスの落とし子が成長しないなら……何年も前の姿のままでずっといる人が存在するわけだ。……君、本当は本当に、ドリィ姫で……君もまた、アビスの落とし子なんじゃないのかい」
 そう、ルッカと再会したあの時からずっと心の中で燻っていた疑念を、ビリィはとうとう口にした。ルッカがドリィを「姫様」と呼んだこと……そして今、ドリィがこの話をしたことで、疑念はほぼ確信として固まりつつあった。そうだ、そうすればすべての辻褄は合うのだ。ドリィがアビスを倒す剣を持っていたことも、コルマガ王国を目指そうと言ったことも。
 ビリィの問いかけに、ドリィは黙ったままだった。ただ、琥珀色の瞳だけがビリィをまっすぐに見据えていた。
「それなら、ドリィは知っているんだろう。僕が思っている以上にアビスを、その存在を。なぜこの世界にアビスが現れたのか、なぜアビスの落とし子なんてものが存在しているのか、なぜコルマガ王国が真っ先にアビスに襲われたのか、……コルマガ王国が、アビスの誕生にどう関係しているのか、みんなみんな」
 ビリィは強い口調で話す。暫く表情を動かさずにビリィを見やっていたドリィだったが、やがて眼を閉じると大きく息を吐いた。
 
「……そうね、大体ビリィの想像通りだと思うわ。私はドリィ・マスト。コルマガ王国王家の、正当な血を継ぐ姫よ」
 
「……!」
 
 わかっていた。わかってはいたが、頭の中でふわふわと形にならずに漂っていたものをはっきりと突きつけられて、ビリィは臆したように拳を握りしめた。
「想像通り、っていうのは、アビスのことも……」
 俯いて、上目がちに言葉を紡いだ。びゅう、と風が吹いて、家をガタガタと揺らした。暗闇が少しずつ沈んでいく部屋の中で、ドリィは瞬きもせずにビリィを見ていた。
「……ビリィに、嘘はつきたくない」
 ぽつり、ドリィが呟く。数時間ぶりに瞳に感情が戻ったようだった。揺れる瞳でドリィは言葉を続ける。
「ごめんなさい、それでも……今はまだ、多くを語ることはできないの。ただ、ビリィに3つだけ約束をしてほしい」
「約束……?」
 ビリィの問いかけにドリィは頷く。そして人差し指を立てた。
「ひとつめは、私とこのままコルマガ王国まで一緒に来てほしいこと」
 ビリィは頷いた。それはハルーカでも話していたことだ。今更迷うべくもない。
 ドリィは続けて中指も立てる。二本の指をビリィに向けた。
「ふたつめは、……ルッカを、このまま殺してほしい」
「……っ!」
 ビリィは跳ねるように立ち上がると、そのままドリィの襟口をぐいと掴んだ。ドリィに噛みつきかねない勢いで怒鳴りつける。
「じゃあ、君はどうなんだ!10年前から!全く成長しない君が!アビスの落とし子だとしたら!!」
 しかしドリィは怯える様子もなかった。睨み付けるビリィに、先ほどと変わらない無表情を向けて、最後に薬指を立てて三本にする。
 
「みっつめは、」
「ドリィ!」
 
 
「コルマガ王国に着いたら、私を殺してほしい」
 
 
「……っ!?」
 
 ドリィの言葉に、ビリィは思わず掴んでいた手を放した。ドリィがベッドに尻餅をつく。そのまま三角座りをすると、「最初からそのつもりだったの」とドリィは笑った。
「ビリィが考えている通り、アビスの誕生にはコルマガ王国が大きく関わっているわ。私が成長しないままでいる理由も、ご想像通り……だと思ってる。私も」
「思ってる……?」
「わからないの。アビスの落とし子のように、私の体にはアビスの一部が現れてこない。ただ、この10年、私の体は1ミリたりとも成長しなかった。それどころか、どんなにご飯を食べずにいても、高い崖から落ちたとしても、剣で体を突き刺しても……私は、死ねなかった」
「……!」
 ビリィは驚きに目を見開いた。

 ドリィの荷物が少なかったのは、ロストテクノロジーの遺産を使っていたからだけではなかったのだ。不老不死、そんな単語が胸を掠めた。おとぎ話でしかありえなかった存在が今目の前にいるという現実に、ビリィは全てが悪い夢ではないのかとすら思った。

「私がアビスの落とし子なら、ビリィの剣で殺すことができる。コルマガ王国にたどり着いて……確認したいことがあるの。それさえ終われば、私はあなたにすべてを話すことができる。だから、」
「だから、それからのアビス退治は僕に任せて、自分はさっさと逃げようって?」
「!」
 ドリィがばっと顔を上げる。ビリィは大げさにため息をついてみせた。
「僕に嘘をつきたくないって言ってくれたけどさ、君、ハルーカで言っていたじゃないか。『私と最後まで戦ってくれるか』って。それは嘘だったのかい?」
 やれやれ、と言いたげにビリィは頭を振った。ここまできたら逆に冷静になるしかなかった。あきれたように肩を竦めるビリィを見て、ドリィは唇をきゅっと結んだ。拳が震えている。
「でも、だって、私は」
「さっきの約束で、僕が守れるのはひとつだけだ。コルマガ王国まで君と一緒に行く、それだけ。コルマガ王国に何があって、僕は何を知れるのか。それがわからない限り、僕はルッカだって、君の命だって諦められないさ」

 そう言いながらビリィは立ち上がった。そうだ。それしかない。この心に次々と浮かぶ疑問を全て解決しなければ、とても次のことを考えられそうになかった。ドリィはそんなビリィを不安げな顔で見上げる。
「ビリィ……」
 逆に、それまで険しい顔しかしていなかったビリィはにっと笑い返してみせた。
「……ルッカが目を覚まして不安がるといけないから、僕は向こうの部屋で寝ることにするよ。ドリィはどうする?」
「あ……、私は、今日はここでいいわ。もう少し、一人で考えたいから」
「そうだね。僕もそうしようかと思うよ」
 ためらいがちに答えるドリィに微笑むと、ビリィは扉を開けて部屋を出て行こうとする。その背中に、ドリィは追いすがるように叫んだ。

「ビリィ!……ルッカをこれから、どうするつもりなの?」
 ビリィはドリィに背中を向けたまま答える。
「どうもこうも、置いていけないだろう。一緒に連れて行くつもりだよ、この旅に」
「……もし、ルッカが途中でアビスになってしまったとしたら?」
 恐る恐る発せられた言葉に、ビリィは一瞬口を噤んだ。眉根を寄せるが、しかし毅然とした顔で振り返る。
「その時は殺すよ。僕がこの手で……この剣で。ルッカの友人として。約束だ」
 そしてゆっくりと扉をしめる。ぱたん。木の扉が静かな音を立てた。
 ドリィは最後までベッドから立ち上がることもできずに、ただじっと扉を見つめていた。やがて思い出したように鞄を手探ると、アビスの角を削った粉が入った袋を取り出した。

「馬鹿だなぁ、私、今何を期待したんだろう」

 袋をぎゅっと握りしめた。さらさらと澄んだ音が袋の中で鳴る。


「みんなごめんね。大丈夫……最後にはきっと、私も行くから。ビリィならきっと、叶えてくれるから」
「ビリィ?」
「ああごめん、起こしちゃったかい?」
 扉を開けると、薄暗い部屋の中からルッカの声が聞こえた。ビリィは枕元のろうそくに灯りを燈す。
 仄かな光の中にルッカの顔が浮かび上がった。その額の角に、ビリィはぐっと言葉を堪える。
 枕元に座ると、そっと髪を撫でた。ルッカも今度は身を任せて、目を瞑ると気持ちよさそうに微笑んでいる。
「ビリィは、大きくなったんだねぇ……」
 何気なく呟いたであろうその言葉に、ビリィはぎゅっと胸を締め付けられるような思いがした。10年前と変わらない目の前の少女の姿と、埋めようがない額のその角の姿がビリィに戻らない過去を静かに、けれどはっきりと示しているようだった。
「……ルッカが、小さいまんまなだけだよ」
 やっとのことでビリィは笑った。ルッカもまた微笑み返す。まだ微睡んでいるようで、うとうとと目を瞬かせていた。

「……夢をね、見ているような気がしてるんだ」
「ルッカ?」
 布団から出された手を、ビリィは握り返した。ルッカは夢うつつな様子で、ビリィではない、どこか遠くを見ているようだった。
「悪い夢だよ。みんなが私のことを、化け物だって言って石を投げるの。アビスの落とし子だって。昨日まで一緒に遊んでいた隣の家の子や、村はずれのおばあちゃん、……お父さんに、お母さんも」
「……っ」
 それは、確かに想像していたことだった。しかし、現実であってほしくはなかった。それが真実としてルッカの口から語られることに、ビリィは目の奥をぎゅっと引っ張られるかのようだった。
 ルッカはうとうとと舟を漕ぎながら言葉を続ける。
「最後は、家に閉じ込められて……扉が全然開かなくて。やっと外に出られたと思ったら、もう誰もいなかったの。ひとりぼっちの世界で、太陽が昇って、沈んで、ずっとずっと、今日がいつなのかもわからないまま暮らしてた。
 だからね、夢なんだ。こんな悪い夢覚めちゃえばいいのに。目が覚めたら、お母さんの朝ご飯の匂いがして、お父さんが薪を割る音が聞こえて、そんな朝が来るから、早く早く、目を覚ましたかった」
「ルッカ、」
「でもね、」
 ろうそくの炎が揺らめいた。ルッカはころりと横になると、自分の手を握っているビリィの手にもう片方の手を重ねた。暖かかった。ビリィの手を撫でてその感触を確かめると、ルッカはゆっくりと微笑んだ。
「今日は、ビリィに会えたから。大きくなったビリィが来てくれたから。今日はいい夢なんだ」
 えへへ、とルッカは笑う。ビリィはもう何も言えなくなって、つんとした鼻の奥をごまかすようにズッと息を吸った。
「ルッカ……」
 声が震える。目尻に涙が浮かんでいるのが自分でもわかった。情けない顔をしているんだろう。鼻水が出そうで、鼻の頭が痛かった。
「ここは現実だよ。悪い夢はもう終わりだ。僕らと一緒に行こう、ルッカ」
 やっとの思いでそれだけを言った。ボロボロと涙が零れてくる。彼女をこんなにも長い間、ここに置いてきてしまっていたことが情けなかった。こんな思いをしている友を、自分は今までずっと知らずにいたのか。
 ルッカは暫く夢うつつの頭でビリィの言葉を考えているようだったが、やがてその意味を理解するとゆっくりと頬を紅く染めた。彼女の目にも涙が浮かんでいた。撫でていた手に力を込めると、ビリィの手をぎゅっと握る。
「……いいの?ビリィ」
 その声もまた震えていた。ビリィは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で強く頷いた。
「よかったぁ……」
 ルッカは泣きながら笑うと、瞼を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
 ビリィはその髪をゆっくりと撫でて、恐る恐る角に触れてみた。ひやりと冷たかった。
 すぅ、すぅ、という浅い寝息は、そのままルッカの幼さを示していた。ビリィは立ち上がると、ろうそくを消して部屋の角から毛布を引っ張り出してくる。それにくるまると、ベッドにもたれかかってゆっくりと目を閉じた。
 自分たち以外誰もいない部屋は本当に静かで、自分とルッカの寝息の他には、時折湖から吹いてくる風が木々を揺らす音がするぐらいだった。ドリィがいるはずの隣の部屋からも何も聞こえてこない。もう寝たのだろうか。
 
「……」
 ビリィはため息をつくと、あまりにもいろんなことがありすぎた今日のことを思い返した。
 ドリィにはああ言ってみせたものの、ビリィ自身がこの状況に未だに混乱している状態なのだ。ドリィは結局多くを語ってくれないままで、ビリィは一体自分の頭の中をどこから整理していいのかもわからなかった。
 なぜ、人にアビスの一部が現れるのか。今までビリィはそんな話を聞いたことも、当然見たこともなかった。しかもドリィがコルマガ王国のドリィ姫本人だとは。ビリィ自身、うっすらと可能性を考えていたことではあった。しかし、実際に真実として目の前に提示されると却って現実味がないように感じられる。
 ビリィは胸に抱えた剣に力を込めた。村を滅ぼした存在、アビス。あの怪物に復讐を果たすため、今まで生きてきたはずだった。しかし今日、ルッカに会ってドリィの話を聞いた今では、その決意すらぐらぐらと心で揺れてしまっていた。
 
 アビスの落とし子は、いつかアビスになる。
 
 その言葉が導き出す答え。それを、敢えてビリィは考えないようにした。
 そう、決めたのだ。アビスは滅ぼす。ルッカは救う。そしてドリィも。簡単な図式じゃないか、ビリィはそう自分に言い聞かせた。
 ルッカの規則正しい寝息が、やがてビリィにも睡魔を運んでくる。ビリィは瞳を閉じると、緩慢に身の内を包むその欲にゆっくりと身を任せた。
 
 
 
 気が付けば、炎の中にいた。
 ジリジリと腕を焦がす熱の中、ビリィは目の前の光景がよく見知ったものであることに気づいていた。
 そう、これは自分の生まれた故郷。アビスに襲われて、なす術もなく滅んでいく村の姿。
 左手に固いものが触れる。剣だ。柄に掘られた刻印はまがまがしく、しかしそれこそが力であるとビリィに語りかけるようだった。
 アビスの吼える声がする。そうだ、今の自分には力がある。
 剣を強く握ると、ビリィは地を蹴って目の前に対峙するアビスに斬りかかった。その切っ先がアビスの角に肉薄した瞬間、そこにいるのは幼い少女の姿になっていた。褐色の肌に、水色の髪。
「ルッカ、」
 びくりと肩が痙攣する。剣を振る腕を止めようとするが、高く飛び上がった体は重力に任せるしか術がなく、その刃は振り下ろされ、ルッカは、
 
 
 
「……リィ、ビリィ、起きて」
 肩を揺すられてビリィはゆっくりと目を開いた。はっと気が付いて飛び起きると、今見ていたものが夢だと気が付いて安堵の溜息を洩らす。
「ドリィ?」
 ビリィを起こしたのはドリィだった。まだ夜は深く、暗闇にドリィの肌が白く浮き上がっている。ルッカは今のやりとりにも目を覚まさなかったようで、背中でスゥ、スゥ、と規則正しい寝息が聞こえた。
「ビリィ、アビスが出るわ。森の西方へ10キロの地点よ」
 ドリィの言葉にビリィの体が緊張する。さっき見た夢を思い出した。思わず後ろを見るが、ルッカはぐっすりと眠ったままだった。
「……わかった、行こう」
 ビリィは小声で返すと、くるまっていた毛布から身を起こす。ドリィはそんなビリィを見上げると、黙って頷いて立ち上がった。
 剣を背中にかけマントを羽織る。ルッカを起こさないようにそっと扉を開いた。ドリィもその後に続く。家を出ると同時に駆け出した。
「この剣、前は馬鹿みたいに早く走れたけど……どうしたら前みたいに使えるようになるんだい」
 走りながらビリィは背中に声をかける。続いて走るドリィは、息を上げながら答えた。
「多分……アビスが実際に出てくれば前のように光りだすはずよ。そうすればきっと」
「わかった」
 それでも、アビスが出てくるまでになるべく近くまで行くに越したことはないだろう。ドリィも同じ考えのようで、走る速度を緩めることはなかった。走りながらビリィは背中をついてくる少女のことに思いを巡らせる。
 
 ドリィはアビスの現れる場所がわかる。ドリィに起こされるまで、自分はアビスの存在にすら気づかなかった。今だって、ドリィの言葉を信じて走っているだけだ。ルッカもそうなのだろう。先程のやりとりの中でも、決して起きることはなかった。
 
 ならば。彼女だけが『アビスの現れる場所』がわかる理由とは。
 
「……」
 
 ドリィは、と聞きかけてやめた。問いかけたところで誤魔化されるのがオチだろう。ビリィはぐっと足に力を込めると、走るスピードを速める。ドリィはそんな背中を見て、黙ってただ追いかけた。
 
 村を出て森から遠く離れると、また背の低い植物が点々と生い茂るだけの荒れ野へ出た。土が固い。踏みしめる足も自然と軽くなった。
 と、暗い影がビリィ達を覆い、獣の方向が空に響いた。アビスだ。見上げると、ハルーカの街で見た個体より一回り小さいものの、それでもなお視界を遮る巨体が目の前に現れていた。
 ビリィは剣を抜くと、腕に力を込める。その刃は眩いばかりに輝いていた。
「ビリィ!」
 ドリィが叫ぶ。ビリィは振り向かないままに頷くと、足に力を込めて強く地を蹴った。大きく飛び上がり、一気に距離が詰まる。突如現れた小さな獲物を追って、アビスがゆっくりと顔を上げた。大きな瞳と対峙する。
 その血のような赤い色を、その奥にある何かを、ビリィは覗こうとした。しかしそこには、今にも泣きそうな顔で剣を振り下ろす自分の姿しか見えなかった。
 先ほど見た夢の光景を思い出す。その中で、大きく見開かれた水色の瞳が怯えたようにこちらを見ていた。肩が震え、迷いが剣に出る。振り下ろされた切っ先は胸の中央の角を逸れ、右胸から腹にかけてアビスの肉を深くえぐった。苦悶の唸り声が高く上がった。
 体長の三分の一以上の長さに渡る深い傷を受けながら、やはりその傷口から血が出てくることはなかった。ただぱっくりと開いた傷から紅い肉が覗く。ビリィは一歩後ずさった。
 
「ビリィ!」
 
 背中から再度ドリィが叫んだ。アビスは痛みを感じているのか、「ぐるるるる……」と低い唸り声を上げながら傷口を鋭い爪のついた腕で必死に抑えようとする。それは当然ながら逆効果で、剥き出しの肉を爪が更に傷つけた。
「迷わないで!殺して!アビスを殺して……!」
 叫び声が響く。悲痛な声だった。
 泣いているようにすら聞こえて、ビリィは思わず後ろを振り向く。こちらに走ってくるドリィと目があった。ドリィは一瞬ビクリと身体を震わせたが、しかし足を止めることはなかった。苦しそうに目を細める。
「振り返らないで……!」
 そのままビリィの背中に飛び込んだ。どん、という衝撃がビリィの体を揺らし、遅れて、震える声が耳に届いた。
「お願い……これ以上苦しませないで。楽にしてあげて……」
 その言葉に、ビリィは喉を詰まらせる。もう一度アビスを見上げた。「死ねない」と笑ったドリィの顔が、泣きながら握ったルッカの手の温もりが蘇る。アビスは傷を掻きむしり叫んでいた。もう、前に進む力などないのだと、ビリィにもわかった。
 ビリィはドリィの肩に手を置くと、ぐっと押して身を離した。右手の剣をもう一度握りなおす。今度こそ、強く力を込めて。
 そしてそれを、アビスに向かって構えた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
 ビリィは叫んだ。強く地を蹴った。角を目がけて剣を振り下ろす。迷うことなく真っ直ぐに。
 
 瞬間、苦悶の表情を浮かべていたアビスが目を開いた。その光がビリィの方を向く。白く輝く剣の切っ先を見て、ゆっくりと目を細めた。
 それでもビリィにはアビスの心の内を計ることはできなかった。ただ剣の切っ先にすべての力を注いだ。
今度こそ、外さないように。
 
 
 そして剣は、アビスの角を深く貫いた。
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