創作あれこれのお話をぽちぽちおいていく予定です。カテゴリがタイトル別になっています。記事の並びは1話→最新話。
「ビリィ?」
「ああごめん、起こしちゃったかい?」
扉を開けると、薄暗い部屋の中からルッカの声が聞こえた。ビリィは枕元のろうそくに灯りを燈す。
仄かな光の中にルッカの顔が浮かび上がった。その額の角に、ビリィはぐっと言葉を堪える。
枕元に座ると、そっと髪を撫でた。ルッカも今度は身を任せて、目を瞑ると気持ちよさそうに微笑んでいる。
「ビリィは、大きくなったんだねぇ……」
何気なく呟いたであろうその言葉に、ビリィはぎゅっと胸を締め付けられるような思いがした。10年前と変わらない目の前の少女の姿と、埋めようがない額のその角の姿がビリィに戻らない過去を静かに、けれどはっきりと示しているようだった。
「……ルッカが、小さいまんまなだけだよ」
やっとのことでビリィは笑った。ルッカもまた微笑み返す。まだ微睡んでいるようで、うとうとと目を瞬かせていた。
「……夢をね、見ているような気がしてるんだ」
「ルッカ?」
布団から出された手を、ビリィは握り返した。ルッカは夢うつつな様子で、ビリィではない、どこか遠くを見ているようだった。
「悪い夢だよ。みんなが私のことを、化け物だって言って石を投げるの。アビスの落とし子だって。昨日まで一緒に遊んでいた隣の家の子や、村はずれのおばあちゃん、……お父さんに、お母さんも」
「……っ」
それは、確かに想像していたことだった。しかし、現実であってほしくはなかった。それが真実としてルッカの口から語られることに、ビリィは目の奥をぎゅっと引っ張られるかのようだった。
ルッカはうとうとと舟を漕ぎながら言葉を続ける。
「最後は、家に閉じ込められて……扉が全然開かなくて。やっと外に出られたと思ったら、もう誰もいなかったの。ひとりぼっちの世界で、太陽が昇って、沈んで、ずっとずっと、今日がいつなのかもわからないまま暮らしてた。
だからね、夢なんだ。こんな悪い夢覚めちゃえばいいのに。目が覚めたら、お母さんの朝ご飯の匂いがして、お父さんが薪を割る音が聞こえて、そんな朝が来るから、早く早く、目を覚ましたかった」
「ルッカ、」
「でもね、」
ろうそくの炎が揺らめいた。ルッカはころりと横になると、自分の手を握っているビリィの手にもう片方の手を重ねた。暖かかった。ビリィの手を撫でてその感触を確かめると、ルッカはゆっくりと微笑んだ。
「今日は、ビリィに会えたから。大きくなったビリィが来てくれたから。今日はいい夢なんだ」
えへへ、とルッカは笑う。ビリィはもう何も言えなくなって、つんとした鼻の奥をごまかすようにズッと息を吸った。
「ルッカ……」
声が震える。目尻に涙が浮かんでいるのが自分でもわかった。情けない顔をしているんだろう。鼻水が出そうで、鼻の頭が痛かった。
「ここは現実だよ。悪い夢はもう終わりだ。僕らと一緒に行こう、ルッカ」
やっとの思いでそれだけを言った。ボロボロと涙が零れてくる。彼女をこんなにも長い間、ここに置いてきてしまっていたことが情けなかった。こんな思いをしている友を、自分は今までずっと知らずにいたのか。
ルッカは暫く夢うつつの頭でビリィの言葉を考えているようだったが、やがてその意味を理解するとゆっくりと頬を紅く染めた。彼女の目にも涙が浮かんでいた。撫でていた手に力を込めると、ビリィの手をぎゅっと握る。
「……いいの?ビリィ」
その声もまた震えていた。ビリィは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で強く頷いた。
「よかったぁ……」
ルッカは泣きながら笑うと、瞼を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
ビリィはその髪をゆっくりと撫でて、恐る恐る角に触れてみた。ひやりと冷たかった。
すぅ、すぅ、という浅い寝息は、そのままルッカの幼さを示していた。ビリィは立ち上がると、ろうそくを消して部屋の角から毛布を引っ張り出してくる。それにくるまると、ベッドにもたれかかってゆっくりと目を閉じた。
自分たち以外誰もいない部屋は本当に静かで、自分とルッカの寝息の他には、時折湖から吹いてくる風が木々を揺らす音がするぐらいだった。ドリィがいるはずの隣の部屋からも何も聞こえてこない。もう寝たのだろうか。
「……」
ビリィはため息をつくと、あまりにもいろんなことがありすぎた今日のことを思い返した。
ドリィにはああ言ってみせたものの、ビリィ自身がこの状況に未だに混乱している状態なのだ。ドリィは結局多くを語ってくれないままで、ビリィは一体自分の頭の中をどこから整理していいのかもわからなかった。
なぜ、人にアビスの一部が現れるのか。今までビリィはそんな話を聞いたことも、当然見たこともなかった。しかもドリィがコルマガ王国のドリィ姫本人だとは。ビリィ自身、うっすらと可能性を考えていたことではあった。しかし、実際に真実として目の前に提示されると却って現実味がないように感じられる。
ビリィは胸に抱えた剣に力を込めた。村を滅ぼした存在、アビス。あの怪物に復讐を果たすため、今まで生きてきたはずだった。しかし今日、ルッカに会ってドリィの話を聞いた今では、その決意すらぐらぐらと心で揺れてしまっていた。
アビスの落とし子は、いつかアビスになる。
その言葉が導き出す答え。それを、敢えてビリィは考えないようにした。
そう、決めたのだ。アビスは滅ぼす。ルッカは救う。そしてドリィも。簡単な図式じゃないか、ビリィはそう自分に言い聞かせた。
ルッカの規則正しい寝息が、やがてビリィにも睡魔を運んでくる。ビリィは瞳を閉じると、緩慢に身の内を包むその欲にゆっくりと身を任せた。
気が付けば、炎の中にいた。
ジリジリと腕を焦がす熱の中、ビリィは目の前の光景がよく見知ったものであることに気づいていた。
そう、これは自分の生まれた故郷。アビスに襲われて、なす術もなく滅んでいく村の姿。
左手に固いものが触れる。剣だ。柄に掘られた刻印はまがまがしく、しかしそれこそが力であるとビリィに語りかけるようだった。
アビスの吼える声がする。そうだ、今の自分には力がある。
剣を強く握ると、ビリィは地を蹴って目の前に対峙するアビスに斬りかかった。その切っ先がアビスの角に肉薄した瞬間、そこにいるのは幼い少女の姿になっていた。褐色の肌に、水色の髪。
「ルッカ、」
びくりと肩が痙攣する。剣を振る腕を止めようとするが、高く飛び上がった体は重力に任せるしか術がなく、その刃は振り下ろされ、ルッカは、
「……リィ、ビリィ、起きて」
肩を揺すられてビリィはゆっくりと目を開いた。はっと気が付いて飛び起きると、今見ていたものが夢だと気が付いて安堵の溜息を洩らす。
「ドリィ?」
ビリィを起こしたのはドリィだった。まだ夜は深く、暗闇にドリィの肌が白く浮き上がっている。ルッカは今のやりとりにも目を覚まさなかったようで、背中でスゥ、スゥ、と規則正しい寝息が聞こえた。
「ビリィ、アビスが出るわ。森の西方へ10キロの地点よ」
ドリィの言葉にビリィの体が緊張する。さっき見た夢を思い出した。思わず後ろを見るが、ルッカはぐっすりと眠ったままだった。
「……わかった、行こう」
ビリィは小声で返すと、くるまっていた毛布から身を起こす。ドリィはそんなビリィを見上げると、黙って頷いて立ち上がった。
剣を背中にかけマントを羽織る。ルッカを起こさないようにそっと扉を開いた。ドリィもその後に続く。家を出ると同時に駆け出した。
「この剣、前は馬鹿みたいに早く走れたけど……どうしたら前みたいに使えるようになるんだい」
走りながらビリィは背中に声をかける。続いて走るドリィは、息を上げながら答えた。
「多分……アビスが実際に出てくれば前のように光りだすはずよ。そうすればきっと」
「わかった」
それでも、アビスが出てくるまでになるべく近くまで行くに越したことはないだろう。ドリィも同じ考えのようで、走る速度を緩めることはなかった。走りながらビリィは背中をついてくる少女のことに思いを巡らせる。
ドリィはアビスの現れる場所がわかる。ドリィに起こされるまで、自分はアビスの存在にすら気づかなかった。今だって、ドリィの言葉を信じて走っているだけだ。ルッカもそうなのだろう。先程のやりとりの中でも、決して起きることはなかった。
ならば。彼女だけが『アビスの現れる場所』がわかる理由とは。
「……」
ドリィは、と聞きかけてやめた。問いかけたところで誤魔化されるのがオチだろう。ビリィはぐっと足に力を込めると、走るスピードを速める。ドリィはそんな背中を見て、黙ってただ追いかけた。
村を出て森から遠く離れると、また背の低い植物が点々と生い茂るだけの荒れ野へ出た。土が固い。踏みしめる足も自然と軽くなった。
と、暗い影がビリィ達を覆い、獣の方向が空に響いた。アビスだ。見上げると、ハルーカの街で見た個体より一回り小さいものの、それでもなお視界を遮る巨体が目の前に現れていた。
ビリィは剣を抜くと、腕に力を込める。その刃は眩いばかりに輝いていた。
「ビリィ!」
ドリィが叫ぶ。ビリィは振り向かないままに頷くと、足に力を込めて強く地を蹴った。大きく飛び上がり、一気に距離が詰まる。突如現れた小さな獲物を追って、アビスがゆっくりと顔を上げた。大きな瞳と対峙する。
その血のような赤い色を、その奥にある何かを、ビリィは覗こうとした。しかしそこには、今にも泣きそうな顔で剣を振り下ろす自分の姿しか見えなかった。
先ほど見た夢の光景を思い出す。その中で、大きく見開かれた水色の瞳が怯えたようにこちらを見ていた。肩が震え、迷いが剣に出る。振り下ろされた切っ先は胸の中央の角を逸れ、右胸から腹にかけてアビスの肉を深くえぐった。苦悶の唸り声が高く上がった。
体長の三分の一以上の長さに渡る深い傷を受けながら、やはりその傷口から血が出てくることはなかった。ただぱっくりと開いた傷から紅い肉が覗く。ビリィは一歩後ずさった。
「ビリィ!」
背中から再度ドリィが叫んだ。アビスは痛みを感じているのか、「ぐるるるる……」と低い唸り声を上げながら傷口を鋭い爪のついた腕で必死に抑えようとする。それは当然ながら逆効果で、剥き出しの肉を爪が更に傷つけた。
「迷わないで!殺して!アビスを殺して……!」
叫び声が響く。悲痛な声だった。
泣いているようにすら聞こえて、ビリィは思わず後ろを振り向く。こちらに走ってくるドリィと目があった。ドリィは一瞬ビクリと身体を震わせたが、しかし足を止めることはなかった。苦しそうに目を細める。
「振り返らないで……!」
そのままビリィの背中に飛び込んだ。どん、という衝撃がビリィの体を揺らし、遅れて、震える声が耳に届いた。
「お願い……これ以上苦しませないで。楽にしてあげて……」
その言葉に、ビリィは喉を詰まらせる。もう一度アビスを見上げた。「死ねない」と笑ったドリィの顔が、泣きながら握ったルッカの手の温もりが蘇る。アビスは傷を掻きむしり叫んでいた。もう、前に進む力などないのだと、ビリィにもわかった。
ビリィはドリィの肩に手を置くと、ぐっと押して身を離した。右手の剣をもう一度握りなおす。今度こそ、強く力を込めて。
そしてそれを、アビスに向かって構えた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
ビリィは叫んだ。強く地を蹴った。角を目がけて剣を振り下ろす。迷うことなく真っ直ぐに。
瞬間、苦悶の表情を浮かべていたアビスが目を開いた。その光がビリィの方を向く。白く輝く剣の切っ先を見て、ゆっくりと目を細めた。
それでもビリィにはアビスの心の内を計ることはできなかった。ただ剣の切っ先にすべての力を注いだ。
今度こそ、外さないように。
そして剣は、アビスの角を深く貫いた。
「ああごめん、起こしちゃったかい?」
扉を開けると、薄暗い部屋の中からルッカの声が聞こえた。ビリィは枕元のろうそくに灯りを燈す。
仄かな光の中にルッカの顔が浮かび上がった。その額の角に、ビリィはぐっと言葉を堪える。
枕元に座ると、そっと髪を撫でた。ルッカも今度は身を任せて、目を瞑ると気持ちよさそうに微笑んでいる。
「ビリィは、大きくなったんだねぇ……」
何気なく呟いたであろうその言葉に、ビリィはぎゅっと胸を締め付けられるような思いがした。10年前と変わらない目の前の少女の姿と、埋めようがない額のその角の姿がビリィに戻らない過去を静かに、けれどはっきりと示しているようだった。
「……ルッカが、小さいまんまなだけだよ」
やっとのことでビリィは笑った。ルッカもまた微笑み返す。まだ微睡んでいるようで、うとうとと目を瞬かせていた。
「……夢をね、見ているような気がしてるんだ」
「ルッカ?」
布団から出された手を、ビリィは握り返した。ルッカは夢うつつな様子で、ビリィではない、どこか遠くを見ているようだった。
「悪い夢だよ。みんなが私のことを、化け物だって言って石を投げるの。アビスの落とし子だって。昨日まで一緒に遊んでいた隣の家の子や、村はずれのおばあちゃん、……お父さんに、お母さんも」
「……っ」
それは、確かに想像していたことだった。しかし、現実であってほしくはなかった。それが真実としてルッカの口から語られることに、ビリィは目の奥をぎゅっと引っ張られるかのようだった。
ルッカはうとうとと舟を漕ぎながら言葉を続ける。
「最後は、家に閉じ込められて……扉が全然開かなくて。やっと外に出られたと思ったら、もう誰もいなかったの。ひとりぼっちの世界で、太陽が昇って、沈んで、ずっとずっと、今日がいつなのかもわからないまま暮らしてた。
だからね、夢なんだ。こんな悪い夢覚めちゃえばいいのに。目が覚めたら、お母さんの朝ご飯の匂いがして、お父さんが薪を割る音が聞こえて、そんな朝が来るから、早く早く、目を覚ましたかった」
「ルッカ、」
「でもね、」
ろうそくの炎が揺らめいた。ルッカはころりと横になると、自分の手を握っているビリィの手にもう片方の手を重ねた。暖かかった。ビリィの手を撫でてその感触を確かめると、ルッカはゆっくりと微笑んだ。
「今日は、ビリィに会えたから。大きくなったビリィが来てくれたから。今日はいい夢なんだ」
えへへ、とルッカは笑う。ビリィはもう何も言えなくなって、つんとした鼻の奥をごまかすようにズッと息を吸った。
「ルッカ……」
声が震える。目尻に涙が浮かんでいるのが自分でもわかった。情けない顔をしているんだろう。鼻水が出そうで、鼻の頭が痛かった。
「ここは現実だよ。悪い夢はもう終わりだ。僕らと一緒に行こう、ルッカ」
やっとの思いでそれだけを言った。ボロボロと涙が零れてくる。彼女をこんなにも長い間、ここに置いてきてしまっていたことが情けなかった。こんな思いをしている友を、自分は今までずっと知らずにいたのか。
ルッカは暫く夢うつつの頭でビリィの言葉を考えているようだったが、やがてその意味を理解するとゆっくりと頬を紅く染めた。彼女の目にも涙が浮かんでいた。撫でていた手に力を込めると、ビリィの手をぎゅっと握る。
「……いいの?ビリィ」
その声もまた震えていた。ビリィは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で強く頷いた。
「よかったぁ……」
ルッカは泣きながら笑うと、瞼を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
ビリィはその髪をゆっくりと撫でて、恐る恐る角に触れてみた。ひやりと冷たかった。
すぅ、すぅ、という浅い寝息は、そのままルッカの幼さを示していた。ビリィは立ち上がると、ろうそくを消して部屋の角から毛布を引っ張り出してくる。それにくるまると、ベッドにもたれかかってゆっくりと目を閉じた。
自分たち以外誰もいない部屋は本当に静かで、自分とルッカの寝息の他には、時折湖から吹いてくる風が木々を揺らす音がするぐらいだった。ドリィがいるはずの隣の部屋からも何も聞こえてこない。もう寝たのだろうか。
「……」
ビリィはため息をつくと、あまりにもいろんなことがありすぎた今日のことを思い返した。
ドリィにはああ言ってみせたものの、ビリィ自身がこの状況に未だに混乱している状態なのだ。ドリィは結局多くを語ってくれないままで、ビリィは一体自分の頭の中をどこから整理していいのかもわからなかった。
なぜ、人にアビスの一部が現れるのか。今までビリィはそんな話を聞いたことも、当然見たこともなかった。しかもドリィがコルマガ王国のドリィ姫本人だとは。ビリィ自身、うっすらと可能性を考えていたことではあった。しかし、実際に真実として目の前に提示されると却って現実味がないように感じられる。
ビリィは胸に抱えた剣に力を込めた。村を滅ぼした存在、アビス。あの怪物に復讐を果たすため、今まで生きてきたはずだった。しかし今日、ルッカに会ってドリィの話を聞いた今では、その決意すらぐらぐらと心で揺れてしまっていた。
アビスの落とし子は、いつかアビスになる。
その言葉が導き出す答え。それを、敢えてビリィは考えないようにした。
そう、決めたのだ。アビスは滅ぼす。ルッカは救う。そしてドリィも。簡単な図式じゃないか、ビリィはそう自分に言い聞かせた。
ルッカの規則正しい寝息が、やがてビリィにも睡魔を運んでくる。ビリィは瞳を閉じると、緩慢に身の内を包むその欲にゆっくりと身を任せた。
気が付けば、炎の中にいた。
ジリジリと腕を焦がす熱の中、ビリィは目の前の光景がよく見知ったものであることに気づいていた。
そう、これは自分の生まれた故郷。アビスに襲われて、なす術もなく滅んでいく村の姿。
左手に固いものが触れる。剣だ。柄に掘られた刻印はまがまがしく、しかしそれこそが力であるとビリィに語りかけるようだった。
アビスの吼える声がする。そうだ、今の自分には力がある。
剣を強く握ると、ビリィは地を蹴って目の前に対峙するアビスに斬りかかった。その切っ先がアビスの角に肉薄した瞬間、そこにいるのは幼い少女の姿になっていた。褐色の肌に、水色の髪。
「ルッカ、」
びくりと肩が痙攣する。剣を振る腕を止めようとするが、高く飛び上がった体は重力に任せるしか術がなく、その刃は振り下ろされ、ルッカは、
「……リィ、ビリィ、起きて」
肩を揺すられてビリィはゆっくりと目を開いた。はっと気が付いて飛び起きると、今見ていたものが夢だと気が付いて安堵の溜息を洩らす。
「ドリィ?」
ビリィを起こしたのはドリィだった。まだ夜は深く、暗闇にドリィの肌が白く浮き上がっている。ルッカは今のやりとりにも目を覚まさなかったようで、背中でスゥ、スゥ、と規則正しい寝息が聞こえた。
「ビリィ、アビスが出るわ。森の西方へ10キロの地点よ」
ドリィの言葉にビリィの体が緊張する。さっき見た夢を思い出した。思わず後ろを見るが、ルッカはぐっすりと眠ったままだった。
「……わかった、行こう」
ビリィは小声で返すと、くるまっていた毛布から身を起こす。ドリィはそんなビリィを見上げると、黙って頷いて立ち上がった。
剣を背中にかけマントを羽織る。ルッカを起こさないようにそっと扉を開いた。ドリィもその後に続く。家を出ると同時に駆け出した。
「この剣、前は馬鹿みたいに早く走れたけど……どうしたら前みたいに使えるようになるんだい」
走りながらビリィは背中に声をかける。続いて走るドリィは、息を上げながら答えた。
「多分……アビスが実際に出てくれば前のように光りだすはずよ。そうすればきっと」
「わかった」
それでも、アビスが出てくるまでになるべく近くまで行くに越したことはないだろう。ドリィも同じ考えのようで、走る速度を緩めることはなかった。走りながらビリィは背中をついてくる少女のことに思いを巡らせる。
ドリィはアビスの現れる場所がわかる。ドリィに起こされるまで、自分はアビスの存在にすら気づかなかった。今だって、ドリィの言葉を信じて走っているだけだ。ルッカもそうなのだろう。先程のやりとりの中でも、決して起きることはなかった。
ならば。彼女だけが『アビスの現れる場所』がわかる理由とは。
「……」
ドリィは、と聞きかけてやめた。問いかけたところで誤魔化されるのがオチだろう。ビリィはぐっと足に力を込めると、走るスピードを速める。ドリィはそんな背中を見て、黙ってただ追いかけた。
村を出て森から遠く離れると、また背の低い植物が点々と生い茂るだけの荒れ野へ出た。土が固い。踏みしめる足も自然と軽くなった。
と、暗い影がビリィ達を覆い、獣の方向が空に響いた。アビスだ。見上げると、ハルーカの街で見た個体より一回り小さいものの、それでもなお視界を遮る巨体が目の前に現れていた。
ビリィは剣を抜くと、腕に力を込める。その刃は眩いばかりに輝いていた。
「ビリィ!」
ドリィが叫ぶ。ビリィは振り向かないままに頷くと、足に力を込めて強く地を蹴った。大きく飛び上がり、一気に距離が詰まる。突如現れた小さな獲物を追って、アビスがゆっくりと顔を上げた。大きな瞳と対峙する。
その血のような赤い色を、その奥にある何かを、ビリィは覗こうとした。しかしそこには、今にも泣きそうな顔で剣を振り下ろす自分の姿しか見えなかった。
先ほど見た夢の光景を思い出す。その中で、大きく見開かれた水色の瞳が怯えたようにこちらを見ていた。肩が震え、迷いが剣に出る。振り下ろされた切っ先は胸の中央の角を逸れ、右胸から腹にかけてアビスの肉を深くえぐった。苦悶の唸り声が高く上がった。
体長の三分の一以上の長さに渡る深い傷を受けながら、やはりその傷口から血が出てくることはなかった。ただぱっくりと開いた傷から紅い肉が覗く。ビリィは一歩後ずさった。
「ビリィ!」
背中から再度ドリィが叫んだ。アビスは痛みを感じているのか、「ぐるるるる……」と低い唸り声を上げながら傷口を鋭い爪のついた腕で必死に抑えようとする。それは当然ながら逆効果で、剥き出しの肉を爪が更に傷つけた。
「迷わないで!殺して!アビスを殺して……!」
叫び声が響く。悲痛な声だった。
泣いているようにすら聞こえて、ビリィは思わず後ろを振り向く。こちらに走ってくるドリィと目があった。ドリィは一瞬ビクリと身体を震わせたが、しかし足を止めることはなかった。苦しそうに目を細める。
「振り返らないで……!」
そのままビリィの背中に飛び込んだ。どん、という衝撃がビリィの体を揺らし、遅れて、震える声が耳に届いた。
「お願い……これ以上苦しませないで。楽にしてあげて……」
その言葉に、ビリィは喉を詰まらせる。もう一度アビスを見上げた。「死ねない」と笑ったドリィの顔が、泣きながら握ったルッカの手の温もりが蘇る。アビスは傷を掻きむしり叫んでいた。もう、前に進む力などないのだと、ビリィにもわかった。
ビリィはドリィの肩に手を置くと、ぐっと押して身を離した。右手の剣をもう一度握りなおす。今度こそ、強く力を込めて。
そしてそれを、アビスに向かって構えた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
ビリィは叫んだ。強く地を蹴った。角を目がけて剣を振り下ろす。迷うことなく真っ直ぐに。
瞬間、苦悶の表情を浮かべていたアビスが目を開いた。その光がビリィの方を向く。白く輝く剣の切っ先を見て、ゆっくりと目を細めた。
それでもビリィにはアビスの心の内を計ることはできなかった。ただ剣の切っ先にすべての力を注いだ。
今度こそ、外さないように。
そして剣は、アビスの角を深く貫いた。
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